しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】芸術や文学が光を放つ時代へ

 

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情報化社会が進展し、人間の労働が奪われるのではないかという話もついぞ現実的なものとなりつつある。AI技術は発展し、人工知能量子コンピュータといった、人間の脳の処理能力を遥かに凌駕する機械も誕生してきた。2030年までに、現存している仕事の50%ほどが機械に取って代わっていくと言われていて、これからの時代は、機械に仕事が奪われていくのではないかと危惧されている。そうした時代では、仕事を失った人は貧困にあえぎ、事業を生み出す人は機械の力によって富を稼ぎ続けるという、貧富の二極化が激しい世界となるともいわれている。

 

実際に2017年の株価時価総額の世界ランキングのトップ5を並べてみても、Appleを1位としてAlphabet(Google持ち株会社)、MicrosoftFacebookと続く。すべてアメリカのITサービス企業が並んでいる。ITがどれほど世界の仕事の中心となっているかがこれを見ただけでも分かる。これはわたしの行き過ぎた被害妄想なのかもしれないが、ごく少数の富めるものだけが、ITや通信を駆使してその他大多数から富を巻き上げるといったようなディストピア的世界は、すでに現実のものとなりつつあるのかもしれない。
 
「機械に仕事が奪われる」このように表現してしまうと、あたかも「決して手放してはいけないはずのものを無理やり取られてしまう」というような意味合いが強く前面に出ているように感じられる。しかし、どうであろうか。そのようなネガティブな意味を持ってしまうのは、どうしてもわたしたちにつきまとう経済システムを絶対的なものとして前提としているためではないだろうか。
この言葉に未来への悲観が宿るのは、読み手が以下のような2つの前提を持っているためだと思っている。1つ目は「労働は、絶対にしなければならないことだ」ということ。2つ目は「労働しなければメシは食えない」ということである。つまり、労働→お金→生活という前提が成り立っていることである。労働をしなければお金はもらえないし、お金がなければ生活に必要な食べ物も、住む場所も手に入れられない。だから労働はしなければならないことになるし、労働しなければメシも食えない。この世界ではあたりまえのことだ。にもかかわらず、その根幹にある労働自体が機械によって減少し、消滅しつつあるのではないかと言われている。だったらこれからどうしていけばよいのかという議論が世界中で巻き起こっている。
 
現行の資本主義経済の社会では、どうやってもお金を得ずに生活していくということは非現実的なことであるし、そうした貨幣経済において、お金の呪縛から完全に逃れることはほぼ不可能といってよい。にもかかわらず、そのお金を循環させるために最も必要な部分であるところの仕事が減っている。だとするならば、今の社会のシステムを根本的な部分から見直し、変えていかなければ立ち行かなくなってしまうだろうというのは誰にでもわかることだと思う。経済は停滞しだしていて、バカ正直に働けば働くほど儲かるというのはもはや神話になりつつある。売れば売るほど儲かる、作れば作るほど儲かるといった時代はとうに終わりを迎えた。それでもなんとかして儲けをあげようと、新たに事業領域を広げようとした結果がグローバル化であり、また世界の国々で起こっている右傾化とそれに伴う戦争経済ビジネスの進展である。だがそれにさえやはり限界はあって、グローバル化が進展し世界を巻き込んでいくほど、差異が無くなり経済行動はいずれ減速するし、そもそも戦争を始めてしまえば仕事や会社云々どころではない。もっとも、戦争は破壊をもたらすので、戦後の復興という形での大きな労働市場を見込める。出来上がっているものをまっさらにしてしまうという意味においては、戦争は最高に労働をもたらす。電子レンジやGPSは戦争があったから生まれた。
 
 
もちろん機械の発達も含め、技術の発達というのはよほどの破壊的な変革がない限り、衰退の方向の道をたどることはない。時代が先に行けば行くほど発展していく。だから、労働の機械による自動化はおそらく止められないことであろう。となると、人間がするべき労働の総量はこれからもずっと減少していくことであろう。しかしながら、世界の人口は加速度的に増え続けていっている。ならば、どうしても労働の量に対して人の量が溢れてしまい「人があまる」ことになる。そんな中ですべての人に対して「仕事をせよ」などと発破をかけたとしても、必然的に少ない仕事のパイの取り合いにならざるをえない。パイにありつけるのはどうしたって優秀な能力を持つ人であるから、パイを得られなかったその他大勢の人々は仕事にありつくことができず、お金を得ることができない。だから極端な話、「その他大勢」は結果として飢え死にを待つばかりになってしまう。
もしくはこうなるかもしれない。パイにありつけた連中から、少ない賃金で機械がやるはずの無意味な仕事をするよう仕向けられ、低賃金で長時間こき使われることになる。こき使う側は「君たちが飢え死にしないように、我々が仕事を提供しているのだ」と大義名分を掲げ、それが社会にとって必要な、善良な行為であるかのように主張する。その主張は、「仕事することこそ生活すること」という価値規範が世の中に残っている限り、非常に強い説得力と多くの支持を得ることができるだろう。こき使われる側も「この仕事をやらなければ私たちは飢え死にしてしまう」との不安から、そのほとんど意義のない交換可能性の高い仕事を続けざるを得なくなるし、彼らに逆らうこともできなくなる。
どちらのシナリオにせよ、貧富の差は増大していくことになる。そもそも経済という営み時代が、差異によって利潤を生み出すという性質を持っている以上、どうしても格差が生まれることは逃れられない。ただし情報化社会の場合、上述のとおり、仕事それ自体の絶対量が減少していくという特徴があるために、稼ぐ人と稼がない人という極端なゼロイチの侵食が進んでいき、得をする人と損をする人というゼロサムの侵食が進んでいく。これからの時代は、経済的に持つ者と持たざる者の格差が著しくなってしまうことは明白だろう。
 
 
さて、最近では国立大学の文系学部の廃止という話もある。これは、各種理系の学部や経済学、法学などといった、社会と密接に関わっていて経済的に実益のある学部は残して、哲学や文学、芸術系統の学部を廃止しようという議論である。日本が経済発展し、世界と戦っていくための競争力を保持していくためには、例えば企業が新しい科学技術を用いた新製品を開発したり、政治の場においては経済を促進させるような政策を打たなければならない。そのためには、理系学部を中心とした社会的に「役立つ」学問を優位に立たせて、より多くの学生をそちらに奨励、誘導し、経済発展のための戦力となるような人材を育て上げる必要がある。
経済は、お金という絶対的な数値に還元される指標を持っている。そのため経済の発展のためには「目に見える」「役立つ」そして何よりも「効果のある」ことが重要である。具体的な数値目標を達成でき、かつ即効性のある活動であればあるほど有力なものだとされる。だから、「目に見えない」「役立たない」そして「効果のない」文系学部は無駄な学部であるとしてなくすべきだ、というのが主な廃止の理由である。これは経済という観点から考えたら、とても真っ当で筋の通った考え方であるといえる。
さらに加えて、経済では必ず右肩上がりであることが要求される。成長なき経済発展というものは存在しない。経済は過去の数字との対比、つまり「前年比で何%上昇」という過去との比較によってしか、成功か失敗かが判定されない。だから利益をあげ、経済が発展しようとするためではない行為はほとんど無意味なものとしてしか認識されず、「そんな経済的に意味のない行為は無駄だ」とバッサリ打ち切られる。そのような経営合理的な考え方が、本来学問という経済的な影響からは無縁であったはずの大学、しかも国公立の大学という領域にさえ適用されつつある。
 
つまり、大学の学問領域にさえ、経済的な合理性を適用しようというのが国立大学の文系学部の廃止の背景にある基本的な考え方なのではないかとわたしは考える。そこには失った経済成長を取り戻し、経済的に豊かな社会を取り戻そうというイデオロギーがある。経済が上向きになり、その結果、人々がより多くのお金を得るようになることこそ、多くの人々が幸せに至る「唯一の道」だといった説明が為される。だから、この手の議論でしばしば語られる「かつて経験したあのときのような、お金のある豊かな生活を取り戻しましょう」という言葉は、その豊かだった社会を経験した人に対してほど説得力をもつ。わたしからしてみれば、「過去の栄光と繁栄を再び取り戻す」という、非現実的な甘い夢を見る者たちの時代錯誤な悲痛の叫びが社会に依然としてこだましている、というように思えてならないのは、そうした「夢」を身をもって体験していないからだろうか。ただの酸っぱいブドウなのだろうか。それとも空虚な諦念なのだろうか……。
 
 
繰り返しになるが、資本主義の経済システムに依拠して構築されている以上、利益をあげてお金を稼ぐということに強い価値が置かれる。だから「役に立つか役に立たないか」という言葉の前提には、その多くの場合、暗黙の了解として「お金を稼ぐのに(役に立つか役に立たないか)」という接頭語がつけられている。当たり前すぎる話だが、損か得か、それがすべてというわけだ。
理屈では理解しているし、それが必要なことだと重々理解したうえで、それでもなおお金を稼ぐことへの価値の傾倒、つまり経済至上主義的な傾向があまりにも強くなりすぎるのは果たしていかがなものなのかとわたしは思ってしまう。お金の正義が猛威を奮っているような気がしているのだ。なにしろ不動産王が大統領になる時代だ。また、投資という言葉もよく聞かれるようになった。例えば「教育への投資」という言葉の背後には、よりよい教育によって子どもがまるで「お金を稼ぐ」マシンのような存在となることを願い、教育に払った金額以上のお金を将来に稼げという、経済を第一の価値とした姿勢がもたらした結果なのではないかと考えている。このような経済価値への傾倒が「機械に仕事が奪われる」という言葉への絶望感をもたらし、国立大学の文系学部を廃止しようという動きにあらわれているとわたしは考えている。こうした傾向の背景には、情報化社会の進展によって「現行の経済システムではもう上手くいかなくなってきている」ことが一つ大きく作用しているのではないかという気がしている。
 
世界の経済は停滞し、給料も上がらない。働き過ぎて死んでしまう人がいる一方で、働き口が見つからなくて死にかけている人がいる。口には出さないけれど、もうみんな薄々気づいているでしょう?現行の仕組みがもう半分以上破綻しているということに。そして、お金を稼ぐことによって幸福を手に入れる世界はもう崩壊しているということに。わたしの意見としては、時代の閉塞感というのは、おそらく従来の経済至上的な価値観に則っていては、もはやほとんどの人が報われないという行き詰まり感に起因するものだと思っている。
経済的に富めるものこそが幸せになるという従来のあり方では、もうすでに夢を抱くことは難しい。だからそろそろ新しいステージを考えなくてはならない時期にさしかかっているような気がしている。経済とは「経世済民」の略語である。これはもともと、「世の中を治め、人々を救う」という意味である。しかし、果たして昨今の経済は人々を救っているだろうか。確かにかつて経済は人々を救っていたといえる。経済とともにいれば、人生を安心して生きることができた。夢をもって歩みを進めている人ばかりだった。その頃のことを高度経済成長期と呼んでいる。だが、そんな経済は、今となってはもはや瀕死の病人。求心力もなくしてしまった。今ちょっと我慢すれば、もらえるお金が増えて豊かな明日が待っている、なんてそんな時代ではない。
安心感を得るためにお金を稼いでいるのではない。不安を拭い去るためにお金を求めている。やりがいを求めて仕事をしているのではない。やらなきゃいけないから仕事をしている。
 
 
この閉塞感。働いてお金を稼がなければ生活はできないが、長時間必死で働いても手に入れられるお金は少ないというこの状況において、これを打ち破るためのひとつの打開策として、ベーシック・インカム制度というのが世界の各地で実験的に施行されていたりする。個人的にはこの政策に一つの新たな道を提示してくれることを期待している。この制度は、政府が国民に対して、暮らしていけるだけの最低限度のお金を定期的に無条件で提供するという所得保障制度である。
そもそも財源はどうするのか、大きな政府になり統制国家的になるのではないか、そんなことをしたら働く人がいなくなってしまうのではないか、誰もがやりたがらないが社会にとって不可欠な仕事はどうやって存続させるかなどなど、この制度にはまだまだ議論すべき点も多い。しかし、ベーシック・インカムでも、これから登場するであろうまだ名も無き形態の制度でもいいが、とにかく富の再分配をはじめとした、なにか抜本的な構造の変化を起こさなければ、そろそろ詰みなのではないかと。そんなこと誰もが気付いているけれど、気にしていない。いや気にしていないふりをしている。破壊がなければ創造もない。
ただ、それだけは不十分である。制度を利用するのは政府ではなく、そこに住む人間であって、人々の内側にこそ抜本的な価値観の逆転とも言える変化を起こさなければならない。だが、それこそが最も難しいことだ。なにしろ今まで拠り所としてきた資本主義や経済至上、お金についての価値観を一度大きく否定しなければならないからだ。そうした価値観を否定するということはつまり「あなたが今まで必死になって築いてきたお金やそれを得るための努力に、今までよりも価値を置かない世の中にしていきましょう」と言っているようなものだ。富をたくさん蓄えている人ほど、強い反感を覚えるだろう。それは言ってみれば、資本主義を生きてきた人々の今までの人生を否定するようなものだからだ。己の信ずる価値観を否定されることは、誰にとっても心地良いものではない。
 
いつの時代も、世の中は「大多数」こそが「正しい」ものになる。だから多くの人々が信奉しているかぎり、これからも変わることなく続いていくことだろう。もしどこかしらの社会で新しい制度がうまく行ったという報告が上がり、「もしかしたら、あっちの方がいいのかな」と、人々がその価値観を受け入れようとして初めて、ようやく変化の方向へのスタートラインに立つことができる。しかし、それはまだまだ将来の話だ。同質な価値観共有を得意とし、変化と地震に強い日本では、特にずっと先の話になりそうだ
 
 
さて、膨大な情報処理の根幹にあるのはデータの収集である。膨大な量のデータを集め、それらを数値という指標に還元し、保存する。それをもとに計算・分析する。言ってしまえばそれは統計学である。だから情報化社会とは、統計学社会だとも言い換えられる。統計の分析では平均値や中央値が析出されるので、必ずそこに「基準値」や「標準値」といった値が設定される。よって情報化社会やそれに伴うIoT(モノのインターネット化)などが進展し、あらゆるものがデータ処理にかけられていけばいくほど、世界のそこらじゅうに新たな「基準」が生み出されていく。これを最近では「見える化」などと呼んだりしている。
人間はどうしたって比較をしたがる生き物だから、多くの人々は基準から漏れ出さないように振る舞うし、それに則った行動をしようと心がけるものである。いわゆる「見える化」によって新たな基準ができればできるほど、基準の許容する範囲も狭められていく。であるならば、あらゆる選択肢は排除されていき、基準と比べることによって同じ選択を選ぶ人が増え、同じような人々が生み出されていくはずだ。しかしそれは人間に限らず、モノにもあてはまる。モノは「科学的に最も効率の良いカタチだ」という、やっぱり膨大なデータによって弾き出された根拠によって、同じようなカタチをもったものへと収斂していくだろう。だから人々と同じように、同じようなモノが生み出されていくはずだ。
また、膨大な情報によるデータというのは、その情報量という点において圧倒的な説得力をもっている。数値ほど絶対的な指標はない。「データによると」からはじまる言葉は超強力だ。なぜならそれは誰も否定のしようがない客観的な事実だからだ。だれも数値を否定することはできない。
情報化社会が発展した世界。それはこのように圧倒的な説得力を持った「データ(統計)による規範」があらゆるところに生み出される世界だということを考えると、なりゆき次第では恐ろしいほどに規範にがんじがらめにされた、「非常に強力な統一性」のある均質な世界をもたらすのではないかと思っている。それが良いことなのか、悪いことなのかは別として。
イギリスのSF小説家、J・G・バラードはこのように言ったという。
 

未来は一言で『退屈』だ。未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。

機械や情報によってあらゆる規範や基準が示された未来。そうした未来では、おそらく人々は数値という絶対的な指標のもとに「従順」となる。隣人が何をしているか、何ができるかを常に監視して、自分との比較で値踏みをする。数値こそが絶対的な審判として、いかに自分が平均や平均以上であり続けるかを求めて規範や基準を窺い続け、その結果同質的な者として埋没していくのである。だからバラードは、そんな未来を指し示して「退屈」と表現したのだった。これにはわたしも同感で、このまま情報化社会が進んでいけば、そこにある絶対的な数値への信仰のもとに退屈な世界が待っているのではないかと思っている。
 
では、たとえ機械が発展していった未来でも、いつまでも変わることなく、平均化されず、均質なものにもなることなく人間に残されるであろう特徴は何であろうか。それはきっと、統計では図ることのできない、計算では算出することのできない、人間の裡のカオスな部分、つまり心に由来するところから生まれるものなのではないかと考えている。その心が現実世界に結実したものを具体的に挙げるならば、たとえば芸術や文学といった領域だとわたしは考えている。どんなに技術が発展し、人間にしか出来ないと思われていたあらゆることが機械に取って代わっていったとしても、最後まで人間にしか出来ない領域として残る領域が、心や感性に由来する芸術や文学なのではないかと考えている。
 
「機械に仕事が奪われる」と悲観的に捉えるような未来ではなく、「面倒な仕事は機械がやってくれる」と肯定的に捉えることのできる未来を目指すべきなのではないかとわたしは思う。労働することにおいて、機械と奪い争ってはならない。機械に取って変わってしまうような仕事の領域で、人間が機械に勝てるはずはないのだ。だったら機械の発展を歓迎しよう。機械と仕事を取り合うのではなく、仕事を任せよう。そうなればわたしたち人間は、たくさんの暇な時間を生み出すことが出来るようになる。では、そんな有り余る時間でわたしたちがすべきこととは何か。それは人間にしかできないことではないかとわたしは思う。では人間にしかできないこととは何か。それこそが心に由来するもの、たとえば芸術や文学、哲学といった領域だ。なぜなら、それは決して機械には真似出来ず、心をもった人間にしかできないオリジナルな領域であるからだ。機械に取って代われるような作業は、さっさと機械にやってもらえばいい。その空いた時間を、人間にしかできない発想で埋めていこう。新たな経済活動でも、芸術活動でもいい。非人間的な反復行動はもうやめにして、ロボットに託す。そして人間ならではの独創性に大きな価値をおく社会にしていこう。
 
話は戻るが、国立大学の文系学部の廃止とは、経済的な合理性を求めた結果だと述べた。文系学部は経済的に非合理的だという理由によって排除されるのである。これについて、わたしの意見としては、むしろそうした役に立たないというところにこそ大きな意味があると思っている。
なぜなら芸術や文学ほど、もっとも経済やその他もろもろの外的な影響を受けず、学問それ自体の発展や深化に没頭することができる「純粋な学問」は他にはないのではないかと考えるからだ。理系の学問、仮に薬学の研究を例にあげてみると「新しいクスリを発明したら、日本や企業、大学が儲かる」などといったような経済至上的な理由がどこかしらに絡んできてしまう。他にも文系の学問である法学なんかも、そもそも法律とは国のルールを定めるものである以上、外的なものであるし、現に憲法の解釈を政治家の意向に沿って援用されている状況があるように、政治的な理由が絡んでくる。政治が絡むと体裁が絡む。体裁が絡むと金が絡む。だが芸術や文学は、経済にも政治にも無縁だ。使い所がない。強いて言えば言語くらいなものだろうか。それを役に立たない、実益のない学問と表現するが、言い換えればそれは、経済や政治から無関係のままでいられるということであり、純粋な学問としての独立性を保っていられることの証左であろう。経済的な非合理性こそが、純粋に学問をするうえでの重要な要素だ。ゆえに純粋な学問は、遊びと似たようなものである。そこに純粋な欲求があればあるほど、学問も遊びも仕事もすべては没頭となる。
もしもあらゆる学校から文系学部が廃止され、学校が経済合理性のためだけの学問を修める場所となってしまったとしたら、倫理や道徳を一切合切無視して、どんな手を尽くしてでもお金を稼ぐだけの人を育てる、恐ろしく非人間的な国家が誕生するだろう。そんな国に住む人々は、もはやロボットのようなものだ。情報化社会によってロボットも生み出されていくはずであり、コンピュータには合理性で勝つことができないということを考えると、必然的に機械と争いの絶えない社会となるだろう。経済で他国と勝負し、合理性で機械と勝負する。そして勝負に負けたら貧しくなり、不幸になる。競争に勝つものだけが富んでいき、競争に敗れたものから突き落とされていく。どこぞのSFにでもありそうな、実に殺伐とした世界ではないだろうか。そんな世界を望むのならば、これからも際限なく合理性を突き詰めればいいのかもしれないが。
 
 
モノがなくても人々は語り合い、歌い合う。そこから生まれたのが芸術や文学だ。芸術や文学に特別な道具は必要ない。ひととひとがいるというただそれだけのことで成り立つのがこれらの学問である。あらゆる文明が亡びたとしても、逆にどんなに文明が発展しようとも、言葉や音楽は最後まで人間の心の中にあり続けるだろう。芸術や文学は心を材料とする、具体的なカタチを原料としない学問だ。だから、人間の営為のなかで最後まで確かに残り続けるのは芸術や文学だ。それは自己の心と対話する、人間自身についてを問う学問であり、人間のもつものの中で最も尊く、最も深遠な領域である。芸術や文学に決まりきった答えなど存在せず、データや統計のような客観的な指標もない。だから経済のように、それによる貧富も生まれない学問だ。どこまでも好きなだけ深く掘り進んでゆくことができる。どこまで掘り進むか、そこで何を見つけるかは人それぞれ異なるから、そこでは自分だけの豊かさを手に入れることができるのだ
だから、だれもが幸せを手に入れることができるし、逆に言えばだれもが不幸にもなれる学問だ。こんなにも人を奥深くし、あらゆる外的な制約から自由に豊かさを手に入れることのできる学問は他にないのではないかとわたしは考える。
 
心と情緒。それがわたしたち人間に最後まで残されるであろう特徴だ。それこそが人間が人間たる所以だ。それらを無意味なものとして唾棄していくことは、すなわち人間的であることの死を意味しないか。
 
機械が人々を無益な労働から自由にしつつある。そんな今だからこそ、異常なまでの労働崇拝や、文系学部を廃止する話などに見受けられる、経済至上の価値観を見直さなければならない。もはやほとんどの人が叶わぬ豊かさを手に入れようと、望むべくもないお金を必死になって追いかけまわしているこの経済至上の価値規範から、私たちはそろそろ目を覚まさなければならない。
そして情報化の進歩の著しい現代だからこそ、これからは、芸術や文学が光を放ち、人の心の豊かさを大切にする時代へと向かっていかなければならないとわたしは折に感じるのである。
 
その方が、きっと楽しいからさ。