しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】「楯突く」という面白いことば

 

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昔からおもしろいなあと思っていることばの一つに「楯突く」という表現がある。「反抗する」とか「歯向かう」といった意味で使う慣用句的な言葉である。でも、ずっとおかしいと思っていた。どうして守るために使う「楯」なのに「反抗」なのか、という疑問である。普通、反抗するために使うのは「剣」や「銃」などといった武器ではないのか、と。そこでちょっと考えると、以下のような考えが頭に浮かんできて、一旦納得した。

 

「あ、そうか。楯を「突く」から反抗するなのか。要は、誰かエライ人が持っている楯を、目下の人がちょんちょんと「突く」から反抗なのか!それで「楯突く」か。なるほど!」

納得はしてみたものの、それでも何かしっくりこないところがあった。反抗するにしては、あまりにも小規模すぎるというか、みみっちいことをしているように思えたからだ。
「いや、それなら、楯じゃないとこ狙えよ!本気で反抗する気があるのなら急所を突けよ!ほらもっと首とか。なんでわざわざ絶対ダメージの通らないシールドなんか攻撃してんだよ!」
なんてことを逡巡していた。
 
語源を調べたら、更に混乱してしまった。楯突くとは、
戦場で、楯を地面に突き立てて相手の攻撃を防ぎ、抵抗することからのたとえ」であるそうだ。「反抗する」という意味合いから、てっきり何かを攻撃しているところが語源に含まれているのではないかと思っていた。なので、これを読んで、モヤモヤした。何か、こう、腑に落ちないズレのようなものを感じたのである。
その語源でいくならば、「楯守る」とか「楯忍ぶ」じゃないか、と。それは反抗というよりも、抵抗といった方がより適切なのではないかと。だってあなた、「抵抗することからのたとえ」って言ってますやん。攻撃していない。防御している…と。
 
しかしながら、どうしても「楯突く」という言葉には「攻撃をしかける」といった、アタックのニュアンスが含まれているように感じてしまう。なのに「楯=ディフェンス」とはどういうことか。表現が繰り返しになってしまった感があるが、そのズレがあるからこそ、クエスチョンマークがついたのであった。
この語源の場合、攻撃しているのは「エライ人」の方であって、反抗するはずの目下の人は、楯を構えてしっかり耐えている。守っている。それを反抗と呼ぶには何かが間違っていると思うのだが。
 
さて、ここでクエスチョンを具体化してまとめると、それは以下のようになる。
「向けられた痛みや苦しみを避けたり耐えたりすることが、果たして反抗といえるのだろうか?」というものだ。
もしそれを反抗と呼ぶのならば、逆に反抗しないということは、エライ人の攻撃を楯で受けないということになる。その場を穏便に済ませるためには、やられなければならない。痛みや苦しみを真っ向から受ける、やられっぱなしこそが「楯突かない」であり、反抗しないという態度の証明になる。
 
ということは、エライ人から攻撃されたら「黙って攻撃されろというのか!」
どうやら、今回の腑に落ちないズレというものの正体は、「義憤」であったようである。「黙って上のいいなりで攻撃されろ。さもなくば反抗と見なす」
攻撃に耐えることさえ、反抗になる。降りかかる火の粉を払うことは反抗とみなされるようである。それはおかしい気がするのだが。
「ただひたすら黙って迎合してろ。てめえだけラクして楯なんか構えてんじゃねーぞ。攻撃されることの痛みや苦しみから逃げようとしてんじゃねーぞ、反逆者め」
こう表現すると、いささか被害妄想地味ていると受け取られるかもしれない。が、誰だって痛いのや苦しいのは嫌なはずであって、耐えたから偉くなるわけでもないし、耐えたから強くなれるなんて保障はどこにもない。ドラクエやFFだって、敵の攻撃を防ぐと経験値をもらえるのではなく、敵を退けてこそ経験値を得る。
 
「向けられた痛みや苦しみを避けたり耐えたりすることが、果たして反抗といえるのだろうか?」
先程のこの質問に対する答えとしては、残念ながら、どうやら「YES」であるようだ。偉い身分の人には「楯突く」ことさえ許されないらしい。
……かくも風刺の効いた慣用句だったとは。深掘りした甲斐があったものである。「刃向かう」であれば漢字からして武器を向けて攻撃を仕掛けているということがはっきりするのではあるが。
 
で、このことばが更におもしろいのは、「◯◯が楯突いた」といった、まあフツーの使われ方をするとき、そのほとんどの場合において、その反抗がうまくいったという結果にならないことだ。「◯◯が楯突いた。けれども…」といったように、だいたい「楯突く」と、その後に続く言葉のベタとしては、逆にやり込められるといった展開が続くように相場が決まっている(気がする)。「楯突いた」ところで、まあせいぜい良くて「ちょっと場が乱れた」程度の文脈にしかなっているのを見たことがない。まるで「楯突く」という言葉そのものに「でもまあ失敗するけどね」というニュアンスが最初から込めれているかのように。
 
 
西尾維新先生に倣ってこのフレーズを使おう。
というわけで、後日談というか今回のオチ。
 
「楯突く」の語源は自分の考えたやつ(ここでは「New楯突く」とでも言おうか)のほうがしっくりくる説を唱えたいと思う。
その理由は2つ。
まず1つ目。いま使われている「楯突く」という言葉には、元の語源であるらしいところの「楯を地面に突き立てて抵抗する」というディフェンス的なニュアンスというよりも、むしろ「攻撃をしかけて、反抗する」というアタック的なニュアンスが強いこと。
そして2つ目。「楯突く」という表現を用いるとき、反抗が最後まで成され、「何か下克上的なものが完成した」という文脈ではほとんど用いられない。むしろ「反抗したけど、やり返された」的なニュアンスが最初から込められていることが往々にしてあるということ。
もっと言ってしまえば「楯突く」とき、反抗する側が「実は本気で倒してやろうと思って反抗していない」んじゃないのかとか、「負ける気マンマンで反抗している」んじゃないかとか考えてしまう。ここまでいくと、もうただの邪推かもしれないが。
ただし、もう何度も指摘したとおり、「楯突いた」という文脈では、反抗した人が負けるという結果が余りに多すぎる。そのことを思い返すたび、この邪推はそんなに的はずれなものでもないんじゃないかとも自負している。
 
以上2点の理由から、楯突くの語源は、
「目下の人が、エライ人の持っている楯をちょんちょんと本気で反抗しない程度に小突くことからのたとえ」ということにして、New楯突くを採用することにしよう!
 
 
と、楯突くの語源に「楯突いて」みた。
 
今回の場合、割とアタックの姿勢で楯突いたつもりである。結構強めに、あわよくばひっくり返してやろうというつもりで反抗した。
まあもっとも、語源という「歴史を持った絶対に覆せない相手」に反抗したという意味においては、所詮この程度の反抗など、せいぜい楯をちょんちょんした程度なので、結局は本気でひっくり返せはしないのだが。
 
あれ?
となると、やっぱりNew楯突くの語源のほうが理にかなっているじゃないか!
皮肉にも(?)自分で自分の説を実証してしまったようである。喜ぶべきところなのかもしれないが、なんだか負けた気がしている。「楯突く」の語源に負けたというよりも、なんだかもっと大きな枠組みのもの、言うなれば文化や歴史に負けたような気がしてムシャクシャしている。