しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】世界をみる解像度の違い

 

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 一度観て既に犯人を知っているミステリ映画を、初めて観る人と一緒にもう一度観るとしよう。お互いの見ている視点が全然違うものになる。二回目を観る人は伏線探しに躍起になり、初めて観る人は登場人物のすべてを疑いながら観ることになる。当然ながら見方が違うので注目している箇所は全然違う。そのような認識の違いはもちろん、単に映画の感想だけでなく現実の世界の出来事でもたびたび起こる。

 

「そんな細かいところに注目していたのか」とか「そんな表面的なことしか見なかったのか」というように、視点の違いに気づかされ驚かされることはよくあることだ。その規模が大きく深刻なものになればなるほど意見の衝突が起こり、あるいは人間関係に横たわる深い溝へと発展していく。そうした「見ている現実の差異」を具体的に表すなら、「どれだけ物事を細やかに見ているか」に始終するとわたしは考えている。つまり人によって「世界をみる解像度の違い」が大きく異なるというわけだ。
 結論から言えば、解像度が人によって違うのが当たり前だということを認識しているかどうかが人間関係の中でも重要なことの一つではないかとわたしは考えている。ここでは、その解像度の濃淡について少し掘り下げて考えてみたいと思う。

 ある出来事や物事に対してどれだけ深く細かく考え、感じるか。わたしはその違いを「解像度が違う」という言葉で表現している。もともとは「細やかさが違う」としていたが、ある人から解像度という言葉をもらってそれを採用している。解像度とは画素の密度を示す数値だ。写真の画素数つまりピクセル数が違えば、拡大したときに見えるものも違う。解像度が高いほど、細かな部分もよく見える。物理的な写真やカメラならともかく、これを抽象的な人間の内面部分にあてはめるとなると、一概に、画素数が高ければ高いほど良いとは言えないとわたしは思っている。

 まず前提として、世の中には解像度が細かい人と、粗い人がいる。これは単純な二元論でどちらかに属しているというわけではなく、グラデーションのように人によって濃淡があって、微妙に細かい人もいれば、とてつもなく粗い人もいる。まったく同じ指紋を持つ人がいないのと同じように、まったく同じ解像度を持つひともいない。
 基本的に、対象から読み取る情報の量が多いほど解像度が高く、少ないほど解像度が低いということになる。ここでいう読み取る情報には、その人の主観や想像によるものも多分に含まれていて、客観的な事実だけが読み取ったものとは限らない。例えば解像度が細かな人が感動する映画を観て、過去に似たような経験をしたことを思い出して涙を流しているのなら、それもまた読み取ったことの一部といえる。よって解像度の高さとは感受性の強さとも言い表すことができる。
 では解像度の高い人がどんなものに対しても鋭い観察眼を発揮するかと言われれば、それも一概にそうとも言えない。たしかに解像度の高い人は、物事から何かを感じ取る力は基本的には高いのかもしれないが、解像度の高さにとって重要なのは、個人的な経験や関心の度合いである。どうしたって人間は興味のあることに対しては深く入れ込もうとするし、そうなれば自ずと解像度がグンと高まる。逆に興味のないことに対しては解像度は粗いままとなる。あるいは学びや職業柄によって深く知識を蓄えれば蓄えるほど解像度は自然と高くなっていく。

 解像度の違いは他にも、「帰納と演繹」と「論理と直感」という二項対立の言葉でも言い換えることができる。その人のものの考え方のクセが、演繹的で論理的な思考が優勢であれば解像度が高くなり、帰納的で直観的な思考が優勢であれば解像度が低くなる。物事を理解するときに、「なぜそうなのか」を一つ一つ考えるクセのある人は、論理を脳内に構築することで自分を納得させるのが得意だ。対して直感的に物事を把握する傾向が高い人は、対象を瞬時に捉えるのが得意だ。これはあくまで優勢であるというだけなので、どちらか一方の考え方しかしないという人はいない。もちろん考えるトピックや興味によって異なってくるだろうし、そのときの状況やテンションによっても大きく変動するだろう。だがわたしの勝手な考えでは、人それぞれに基本的な解像度のようなものが設定されていて、そこを基準として上下に解像度が変動すると思っている。そのため、もともと解像度が細かい人がとても粗くなるということは、よっぽどのことがない限り考えにくい。逆もまた然りだ。

 単純な話、考える前に飛ぶ人ならば基本解像度が低く、飛ぶ前に考える人は基本解像度が高い。

 繰り返しになるが、解像度の濃淡は、その人の持つ思考のクセのようなもので、それがイコール思考力そのものの優劣を表すものではない。しかしながらやはり、解像度の粗い人が細かい世界を理解することは困難である。一方で、細かな人が粗い世界を理解することは幾分易しい。ここだけは物理的な写真と同じ部分である。画素数の低い写真をズームしてみると簡単にドットが見えてしまうのと同じように、解像度の粗い人が細かな世界を垣間見ようとするとボヤけてしまってうまく見ることが出来ない。具体的に言えば、感受性の豊かな人が感じ取ったことを理解することは困難であるということである。だが逆に、解像度の細かな人が、解像度の粗い人の表現を理解することは易しい。画素数が低いものを上げることは難しいが、もともと高いものを下げることは易しい。

 しかしだからといって、解像度が高いほうが一概に優れているかといえばそうではないということを繰り返し主張しておきたい。なぜならば、解像度が高ければ高いほど見えなくてもいいものも見えてしまうという弊害があるからだ。解像度が高い人は、低い人が見えないものを見ようと努力して「観る」のではない。おのずと「見えてしまう」のである。これは4K画質のテレビ放送で、芸能人の肌にニキビができているのが見えてしまうようなものだ。つまり精神衛生上、感じ取る必要のないことまで自然と感じ取ってしまうのである。
 よって、解像度の細かさは、ストレスを受けやすくなることとトレードオフの関係があるとわたしは思っている。解像度の低い人は、色彩豊かな感情の渦を楽しむことが不得意かもしれない。要らぬ深みに足を踏み入れることは無いかもしれない。しかしそのおかげで不必要なストレスを受けづらい。それは粗さゆえに持つ大きな強みでもある。


 解像度の違いというのは他にも、文化的な単位でも異なることがある。

 「虹の色は何色か」という質問をすると、国によってそれぞれ大きく異なるのだという。例えばアメリカやイギリスでは日本の7色から藍色を抜いた6色。ドイツではさらに橙色を抜いた5色なのだという。おなじ虹を見ていても国によって色の認識が異なる。色の数は違えども見ているものは同じ虹。幼いころから親に「虹は6色なのよ」と言われ続けていたら、おそらく虹は6色だとしか思えなくなる。ただしそれは単に認識の違いでしかなくて、じゃあ7色に見える方がより色彩感覚に優れており、能力的に優れているのか、と問われればそれは一概にイエスとは言えない。

 人間の味覚は、「甘味」「塩味」「苦味」「酸味」を感じ取るようにできているが、それに加えて「うま味」も感じ取ることができるのだという。この「うま味」は長らく味の一つとしては認められていなかった。しかし2000年にグルタミン酸受容体が発見されて、ようやく五種類目の味覚種として認められるようになった。「うま味」という概念が正式に認められ、人類の味覚に対する解像度がひとつ上がったということになる。日本では古来から、昆布やしいたけを「だし」として使うことで、意図して料理にうま味を取り入れてきたが、欧米の料理にだしが無いからといって食文化が劣っているということを言う人はいないだろう。単に日本ではその食文化的経験知によって、昔からうま味の存在が知られていたというだけである。加えて日常的に「うま味」を豊富に含んだ料理を食べているため、含まれていない料理を食べたときに何か物足りなさを感じるというものなのであろう。もともと日本ではうま味を含めた五種類の味覚を料理にフル活用してきたというそれだけの違いでしかない。
 ちなみに味覚力調査の実験では、日本人と外国人ではうま味を感じる力に有意な差があるという結果もある。この結果の差異が、生まれ持った遺伝的なものに由来するのか、それとも単に習慣的な食文化からくる「うま味」への経験蓄積に由来するものなのかは判明していないが、仮にこれが遺伝的な差異によるものだったとしたら、人種という側面から解像度の違いが導き出されることになる。しかしだからといってそれがイコール人種の優劣にはならないとわたしは思っている。

 以上のように、わたしが思う解像度の違いについて説明をしてきたが、その濃淡の「違い」そのものは問題視されることではないということを主張したい。「あいつはガサツだから」とか、「あいつは超繊細だから」といった話をしたことが一度はあるかもしれない。しかし冒頭で述べたように、ガサツだったり超繊細だったりするのが問題なのではなく、「ガサツなやつの感覚が理解できない」とか「繊細なやつのウジウジにイライラする」とか言ってバッサリ切り捨ててしまうことのほうが問題なのではないかとわたしは思っている。問題とまではいかないまでも、切り捨ててしまうのは、なんだかもったいないなと思っている。

 つまり、解像度が違うこと自体が問題なのではない。解像度が違うことを認識していないということが問題である。きっとこの考え方はあらゆる差異から起こる問題に応用できる考え方だとわたしは思っている。「違うからいけない。違うならばどちらかに合わせなければいけない」という段階の議論では平行線にしかならない。最終的には殴り合いにしか発展しない。そうではなく、「どこが違っているのか。違うならじゃあどうするか」という一歩踏み込んだ部分での議論をしないと建設的な議論にはならないのではないか。これはただの理想論だろうか。
 他人の考え方や価値観を十全に理解できないことは仕方がないことだとわたしは思う。そもそも考えたことさえないことを想像しろという方が土台無理な話で、経験に勝る理解はないと考えるからだ。それよりも問題なのは、他人の考え方や価値観を理解しようとする姿勢がそもそも無いということの方が問題なのだとわたしは思う。理解できない物事を正体不明というカテゴリに追いやって、見なかったことにしてしまったり、最悪の場合、排斥してしまったりすることの方が問題なのだとわたしは思う。このトピックでなぞらえるならば、あなたとわたしでは、そもそも世界をみる解像度が違うという認識に至らず、違うから相手の方がおかしいとみなしてしまうことである。相互理解を実現することは難しいが、相互理解の姿勢をもつこと自体は難しくはないはずだとわたしは思っている。

 世界をみる解像度の違いにおいてもう一つ重要なことは、「解像度が違いが本人の価値観に大きな影響を与えている」ということである。価値観の相違というのは人間関係の永遠のテーマであるが、お互いの解像度があまりにも違っていると、日常の中で何を大切にして暮らしているかという点も大きく異なってくるため、気になるところと気にならないところのズレも大きくなる。そうなるとお互いにストレスを感じやすい関係性に陥りやすくなってしまうはずだ。もちろん、まったく同じ解像度を持っている他人など存在しないが、お互いにある程度似通った解像度を持っていれば、見ている世界も近くなるので、話が合いやすくなる。このことは実際に経験したことのある人が多く共感してもらえる部分なはずだ。
 たとえまったく違う解像度をもった人であったとしても、頭ごなしに相手の価値観を否定するのではなく、むしろ相互に補完し合える関係性を結べるのであれば、それは貴重な関係性となるだろう。自身や似たもの同士では見えてこなかった何かしらのブレイクスルーに巡り会えるかもしれないからだ。こうしたことから考えるに、価値観のすり合わせというのは言い換えれば、「お互いの持っている解像度をさらけ出しあう」ということなのではないかとわたしは思っている。それは単にどちらかに合わせることではなく、相手のもつ解像度を正しく認識するということである。

 ところで、わたしは基本解像度が高い方の部類に入ると自分で思っている。そもそもこうやってやれ解像度だなんだとウダウダと語っている時点で、細かいということがバレてしまう。だからといって別に「頭がいい」とか「普通の人には分からないものが分かる」だとかいう自己優越感のために表明しているわけではない。それどころか、解像度が高いゆえに簡単に悩みこむ。考えなくてもいいことまで深く考え込んでしまったりして逆に辛くなってしまうことが多い。だからむしろ解像度を落とせたらどんなに楽なことだろうかと思うことがたびたびある。一歩踏み出す前に一時間考える。少しは解像度を粗くしたほうが色々と楽になれるだろうなと思ってばかりいる。

 そこで、自分自身への自戒も込めて、というよりもほとんど自分自身に向けてのメッセージになってしまうが、わたしが思う解像度の細かい人への処世術、自分が日頃、外界から受ける刺激によって不必要な感情のオーバーフローが起きないように気をつけている考え方を紹介して終わりにしようと思う。

 ちょっと厨二病っぽくなってしまうが、それをまとめて一言で言えば、「心の瞳をうまく閉ざすしたたかさを手に入れること」だ。そもそも解像度が高いことで起こる精神や身体へ影響するその原因は、トートロジーになるが「細かいこと」そのものにある。だからこれを意図的に「粗く」してしまえばよい。だが厄介なのは、見えてしまっているものを見ないようにするのは、そんなに簡単なことではないということだ。どんなに取り繕ったとしても、もともと見えてしまっているものを観ないようにすることは出来ない。感じ取ってしまっていることを感じ取らないようにすることは出来ない。聞こえてしまっているものを聴こえなかったかのように誤魔化すことは出来ない。

 

 では、見えないフリをして自分を誤魔化すことなしに、どうやってそのしたたかさを手に入れればいいのか。

 

  ① そもそも自分は基本解像度が高いということを自覚する

 

  バカみたいな話かもしれないが「自分は解像度が高いんだ」と認識するだけで幾分ラクになる。おそらく基本解像度が高い人は、他人と自分を比較することに長けている。そのために、なぜ自分には結構ツライことが他人には平気なのだろうと思うことが多々あるかもしれない。そこで有効な考え方が、このトピックでわたしが最初に主張したことである。つまり「人によって解像度は違って当然である」という認識である。わたしはあなたではないし、あなたはわたしではない。だから当然、同じことを経験したとしても感じるものは違う。人との比較は相対的な尺度にしかならない。くだらない。
  何度も言うようだが、解像度の高低は人間性や思考力の優劣のことではない。「自分は解像度が高いんだ。なんか文句あるか」くらいのスタンスを持てるととてもラクになる。

わたしはそんな自分を肯定するために、ゲームになぞらえて「自分は魔力のステータスが高いキャラなんだ」ということにしている。あばたもえくぼということにしてしまった。それくらいの図々しさがあったとしてもバチは当たらないだろう。間違っても、人よりも基本解像度が高いことが異常なことだ、とかいって自己否定してはいけない。自分を自分で矯正しようと試みるのもおすすめしない。基本解像度が高い人は自己内面世界が豊かなので、それをやると必ずと言っていいほど内面からのしっぺ返しを食らう。内面世界は、矯正した自分がウソの自分であることを最初から見抜いている。仮に表面上、矯正がうまくいったとしても、広大な内面世界が矯正した自分を偽物だと断定し、排除しようと試みるので、体調がおかしくなったり、精神が安定しなくなる。なぜなら基本解像度が高い人は、他人にウソをつくことは平気でするくせに、自分自身に対してウソをつくことができないためだ。

 

  ② 幻で傷つかないようにする

 

  これが最も難しいが最も効果的なことである。基本解像度が高い人は、感受性が高く、外界からの刺激をダイレクトに受け、飛ぶ前に考える。そして何よりも「今ここ」ではなく過去や未来のことに思いを馳せがちなので、現実世界と内面世界の時間軸がズレていることが多々ある。そして誰かの放った何気ない過去の一言を、墓場まで持っていくかのごとく正確かつ鮮明に記憶している。それをふとある時に自ら引き出してきては言外の意味を予測して勝手に傷つく。しかもタチの悪いことにこれを何度も繰り返す。
  わたしはそれを「言語的自傷癖」と呼んでいる。これはやはり、解像度の高さゆえに感じ取らなくてもいいものを感じ取ってしまっていることに由来している。読み取る情報の中でも、本人の主観と想像が占める割合が非常に高いことが裏目に出た結果である。しかし基本解像度の高い人は、その言外の意味が「自らが作り出している幻影」に過ぎないということに不思議と考えが至らないものなのだ。これはなぜならば、①で述べたように、自己内面世界のあまりの広さゆえに、現実の物質世界との境目すら曖昧になっていることが多いためだ。そのため、それが幻なのかホンモノなのか見分けることが難しいくらいに精巧なニセモノを自身で生み出してしまうのだ。幻に簡単に騙されてしまうというよりも、あまりにもその幻の出来が良すぎるために、自分自身さえ判断がつかないのである。さきほどのわたしの魔力ステータスの例で言うならば、魔力の高さが逆に仇となって、詠唱した魔法が暴発してしまっているとでも言おうか。


  しかしそれは幻だ。

  直接言われたわけでもないのに、相手はそう思っているに違いないなどと邪推して傷つくのは本当にくだらない。そもそも他人は自分のことなんてそんなに考えていないし、気にしてもいない。そんなに「想像魔法」を使いたいのなら、もっと楽しい幻を作り出すほうに労力を割いたほうがよっぽどマシだ。自分を傷つけるために自らの豊かな内面世界を使うなんて馬鹿げている。

なぜそんなことがたびたび起こるのか。言語的自傷癖によってネガティブな想像をすること。これは例えば「もしも平原のド真ん中で寝たらライオンに食べられる」みたいないわゆる原始的な危機回避能力が暴走しているからなのだとわたしは思う。だがそれは現実ではない。そもそも基本解像度が高い人は、その性質上本当に危機的な状況に陥ることなど皆無に等しい。だからどうか、幻を勝手に作り出しては傷つかないで欲しい。内面世界を構築するものの源泉はすべて現実世界にあるが、わたしたちは内面世界に生きる前に現実世界に生きていて、「今ここ」にしか生きられないのだ。考えてみればそんなことは当たり前のことなのだが、ゆめゆめそれを忘れないでいて欲しい。
  存在しないものに怯えて、ほんとうに傷つく前に傷つくのはもうやめにしよう。あなたが感じ取った「それ」が、あなたの想像の産物なのか、あるいは現実なのか、一度反芻して考え直すことができるのに十分な思考力は持っているはずだ。そもそも一度立ち止まって考えてみるのは得意なはずだ。

 幻と現実を正しく見分けて認識することは、自身にとってのひとつの大きなしたたかさとなるはずだ。

 


  ③ バカ正直になんでもかんでも受け止めるのがそもそも不可能である

 

  これはしたたかさを身につけるための手段というよりは、自身への高くなりすぎたハードルを下げるための方便かもしれない。
  たとえば人が感動で涙を流すのは、一種のストレス反応であるという。涙はコルチゾールをはじめとしたストレス物質を体外へ物理的に排出するための作用機構ではないかと言われている。英語でも感動することを moved と表すが、揺れ動くことはストレスになる。基本解像度が高い人は外界の刺激をダイレクトに食らって「揺れ動かされて」しまう。もちろん涙は感動だけではなく、悲しみなどストレス全般が原因となるが、いずれにせよ涙が出るということはつまりストレスの原因が存在しているということである。よくストレスの溜まった人が、産業医などから「ストレスを溜めない生活を心がけましょう」という毒にも薬にもならない助言を受けるという話をたまに聞く。どうすればストレスを減らせるかという具体的な軽減手段も提示しなければ、何がその人にとってストレスとなっているかも突き止めないのではお話にならない。だがここから導き出せる教訓は、見えなくてもいいものを見ないようにするためには、「見なくてもいい刺激をわざわざ見に行く必要はない」ということである。例えばインターネットやら何やらで不必要に多くの情報を収集することは、いたずらに自分自身を刺激に暴露させているということでもある。ただでさえ勝手に発動する高い解像度を、ウンザリするぐらいにフル活用させているのは、実は他でもない自分自身だということに気づくこと。逆に言えば、入ってくる情報量も自分で調節することができるということでもある。
  話を戻して、人間は涙でストレスを外に出す必要があるということから考えると、たとえその刺激が感動に由来する心地の良いものであったとしても、人間の構造上、刺激の全てを受け切るようには作られていないらしい。心地の悪い刺激ならなおのことだ。だとすれば、わたしたちにできるのは限界を知り、無理しないことではないだろうか。
そんなに人間はタフにできていないし、簡単にオーバーフローするし、オーバーフローしたら泣く。なんでも堪えるのがそもそも無理なのだ。外界から来るすべての想念を受けていたら、いとも簡単にボロボロに傷ついてしまう。
  結局のところ、この方便が最も心の瞳を閉じることに近いかもしれない。まるで一休さんみたいだと思うかもしれないが、解像度が高く、しかも粗く出来ないことに困っているのであれば、直面する出来事を極力減らして、入ってくる刺激の量を減らすことだ。そうすればおのずと受けるダメージも減らすことができる。これは見えないフリではない。バカ正直に戦わないこともひとつのしたたかさだ。

 基本解像度が高い人ほど、見えてしまうものを見ないようにするしたたかさ、感じ取ってしまうことを感じ取らないように出来るしたたかさを積極的に身につけるほうが、きっと日々が平穏に暮らせるとわたしは思っている。人間の眼には瞼という防護壁が備え付けられている。解像度が高い人は、自らの意思で瞼を作り出すことを試してみるのがいいのかもしれない。開きっぱなしの瞳では目が乾いて充血してしまう。瞼があれば、何か危ないものが飛んできても閉じて守ることができるし、何よりも瞳の潤いを保つことができる。充血して乾いた瞳では、せっかく生まれ持った解像度の高さを活かせなくなってしまうものだから。