しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】わかりあえないからわかりあえる

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「察してよ」だとか「わかってほしい」などという言葉はありふれている。特別に言葉を交わさなくても、相手の感情や考えていることを理解し、理解したということさえ相手に伝えずに、相手に合わせた行動を取るというものである。非言語的なコミュニケーションが取れたとき、そこには一種の快楽が生まれる。しかし一方で「わたしの感じていることを、同じようにあなたも感じてほしい」という身勝手な希望がそこにはある。

 

 
実際に、自分が他人と同じ方向を向いているという確信を得ることには、逃れがたい安心感がある。人間はどうしたって、他者と同じであることに安心を抱くのである。それは善悪の問題ではなく、事実としてそうである。そうやって日々、幾度となく感情や価値観のすり合わせをすることによって、あるいは協同し、あるいは独立して歩を進めてきた。人間は社会的動物であるといわれる所以もここにある。共感による同質性の確認とそれによる安堵が人類の社会構築の嚆矢といってもよい。
 
このようにわたしたちは、自分自身の感情や価値観を肯定するために、他者の言動を基準とするという、なんとも不思議な性質を持った生き物なのである。
しかしそれは、ときに仇となる。「察してくれない」「わかってくれない」という落胆は、相手への不信や怒りを引き起こす。そして、どうして怒っているか、どうして不和が起きているかさえも「察する」ことができず、お互いに言葉も多く交わさないまま、「あいつとは分かり合えない」などと一方的に結論づけて敵対してしまう。
敵対された側も、「なぜだか分からないけれど、相手に嫌われているから、自分も嫌うのは自然なことだ」などと思い、結局のところ永遠にわだかまりが解消されることがなくなってしまう。だから「音楽性の違い」を理由に解散するバンドは後を絶たない。共感とは、人間に与えられた諸刃の剣である。
 
 
 
さて、このような「察してよ」という場面、つまり「わたしが感じていることは、同じようにあなたも感じている」というように考えること。「わたしもあなたも同じ」を当たりまえの前提として話を進めていくような場面は、日本では特に多いようにわたしは感じる。それを一言で言い示すならば、共通理解、暗黙の了解、世間様、ハイコンテクスト文化などと表現しようか。
 
これはどうしてなのか。
こうした前提がある理由として、日本語そのものの性質のためではないか、という説を聞いた。
 
 
日本語はほんとうに「主語を立てない言語だ」とわたしはつくづく感じている。主語つまり「誰が」や「何が」にあたる部分は、特に会話ではほとんどの場合、欠落するか、あるいは曖昧になる。なぜなら主語が無くても問題なく伝わるからだ。
日本語のこうした主語の曖昧さの問題が、「察してよ」を読み解くひとつのヒントになっているとわたしは感じている。
 
 
たとえば日本語の「あなた」と英語の「You」という言葉を取り上げてみよう。
厳密に言って、日本語には英語の「You」にあたる言葉は存在しない(もっとも、異なる言語同士に全く同じ意味として対照できる言葉は厳密には無いといえるが)。Youは教科書的には「あなた」と訳されるが、日本語の「あなた」というのは、「You」ほど万能に利用できる言葉ではない。英語の二人称である「You」は、相手が赤ちゃんであろうが社長であろうが誰に対しても全く同じように使うことができる。そこに相手との上下関係性という概念は存在していない。これに対し、たとえば日本語の「あなた」という言葉を社長に使うのは一般的には憚られる。なぜならば、それは失礼に当たると評されるからだ。反対に赤ちゃんに対して「あなた」というのも仰々しさがある。まだ言葉を交わすことのできない赤ちゃんに対して「あなた」と呼ぶのは、およそ独り言。少なくとも不自然さが拭えない。では「あなた」と日本語で用いるときはどういう状況なのか。たとえば妻が夫に対して呼びかけるとき。先生が生徒に対して話すとき。はたまた英語の授業の時間に日本語訳を作るとき。これらからわかることは、日本語の「あなた」という言葉は、非常に特殊な状況下においてでしか用いられないということである。よってこうしたことからみても「You」にあたる言葉は日本語には存在していないといえるのだ。
「あなた」という言葉は、日本語においても明確に二人称を表現するものである。が、それはほとんど用いられないということから鑑みるに、以下のようなことがいえるのではないか。
「日本語では、明確に二人称を用いる状況を必要としていない」のだと。もっと簡潔だが荒削りに表現するならば、『日本語には「あなた」など存在していない』と。
「わたし」に対する言葉としての「あなた」がさほど必要でないということはどういうことなのか。これは非常に興味深いとわたしは思っている。
 
このように、日本語には人称関係という文法」の基礎の基礎にさえも、「自分と相手との上下関係」という現実問題が闖入している。
また、純粋な二人称という概念が希薄でもある。
 
これと似たようなことが、「わたし」と「I」にもいえる。英語の一人称は「I」しかない。ほんとうに他に存在しない。それに対して日本語の「わたし」というのは、単なる一人称のひとつに過ぎない。もう少し的確に表現するならば「わたし」は、もっともニュートラルな響きをもっている一人称の一つとでも表現しようか。
日本語の一人称は、相手との立場によって見事に七変化する。昼間に勤める会社では「わたし」を使い、その晩になって友人と呑むときには「俺」になり、家に帰ると「お父さん」になる。これら複数の一人称を、周囲の状況に合わせて巧みに、かつほとんど無意識的に使い分けている。どれも連続した同一人物であるはずなのに、接している人が変わると自分を指す言葉を変化させるのである。「あなた」と「You」で示したことと重なるが、この一人称の変化は「自分と相手との上下関係」という現実問題が文法に闖入している恰好の例であるといえよう。
こうしたことからわかることは、日本語においては一人称の基盤となっているのが「自己」ではなく「他者」であるということだ。日本語において一人称というのは、他の誰にも成り得ず、どんなときでも不変な「確固としたわたし自身」を示すために用いるのではない。むしろ「社会の中の可変的なとあるひとり」としての自分を指し示す。こうした人称という側面をひとつ考えてみても、日本語の世界では自分という概念が薄くなるのは至極当たり前の帰結となるとわたしは思う。言語的にそうなのだから。
 
日本語における「わたし」とは、「隣りにいる他者と比較する」というフィルターを通した後に生まれる「自己」であり、可変式一人称の一つでしかない。つまり「わたし」という存在は、単に「社会の中の可変的な、とあるひとり」でしかない。実はこれが多くの人々が無意識下に据えている最優先の自己認識だ。だから会社で上司と話している時には「俺」という言葉は不思議と喉に突っかかって出てこなくなる。このような可変式一人称という認識の仕方は、もちろん社会からも要請されるが、実のところ、それ以上に自分自身こそが最優先で認識しているものだったりするのだ。このことは社会に対して、非常に高度な秩序性や同調性を育むことへ大きく寄与しているが、その代償として純粋な「確固としたわたし自身」がもたらすはずだった独創的な世界観やアイディアを少なからず封じ込めるという副作用を招いているとわたしは考えている。この代償を、日々複雑化する世界の秩序を優先するために必要な「取るに足らない犠牲」だと捉えるか、それとも機械やAIの栄えるこれからの時代に必要不可欠な「人間に残された最後のクリエイティビティ」だと捉えるか。さて、世界はどちらをより選択していくだろうか、というのは今後に動向が気になるところだ。
 
 
その言葉は、それ自体の中に意味を荷なう概念であって、その言葉の中に「現実嵌入」が絶対に起ってはならないのである。それが起ると精神はその自由な操作を行うことが出来なくなり、現実との接触から起る「情動」に左右されて精神であることを止めてしまうのである。
(中略)
「現実嵌入」が言語の一部となってしまっている日本語、更にそれと一体になっている経験が、こういう次第であるのは、思想というものに対して殆んど致命的であるように思われる、というのは、「思想」というものはそういうものである。すなわち現実嵌入を徹底的に排除することより外のことではないからである。
 
森有正『思想と経験』より 岩波書店

 

このように日本語においては、一人称という概念の根源的な認識が、ヨーロッパ系言語とは決定的に異なるということがわかる。以上で述べてきたことを最も簡潔にまとめるならば、「わたし」が「わたし」であるという根拠を第一にどこに置いているかというものだ。つまり純粋に「自己」であるか、それとも「他者」へと大きく依存しているかという違いである。
すこしお門違いな話かもしれないが、いくら欧米を見倣って個人主義だなんだと掲げたところで、言語文法的に純粋な「確固としたわたし自身」の存在が希薄なのだから、感覚的にはまったく程遠いのかもしれない。なぜなら、もともと備えている日本語の言語感覚的に、個人主義が根付きにくいからだ。
 
 
純粋な「わたし自身」というのは、周囲の状況を「察せよ」という社会性フィルターを通して濾過されてしまう。
では、そのフィルターを通って出てきた「わたし」とは、社会にとって、また自分自身にとって、一体何者だと言えるのだろうか。
 
 
 
昔からわたしが気になっていた、おもしろいと思う言い回しのひとつに「感想の主語が明示されない付加疑問文」というものがある。具体的に言えば「~だよね」といった語尾で終わる口語。これも日本語に特徴的な現象であるといえる。例えばAさんが「この映画、おもしろいよね」とBさんに投げかけた場合を想定するとしよう。この場合、「おもしろいと思っている」のはもちろんAさんなのだが、この言葉のニュアンスに「”わたしは”おもしろいと思う」という意味合いは希薄なのではないかとわたしは考えている。むしろ「Bさんも同じようにおもしろいと思っているに違いない」といういわば「思い込み」や「希望」といった確認のニュアンスが強く入っている。Aさんは、Bさんの返答は十中八九「確かにおもしろいですね」であるように想定している。よって、この場合の事実上の主語は「AさんとBさん」つまり「わたしたち」の方が、より的確であるといえるだろう。
このように、日本語においては「I」でしかないはずの対象が、「I」側の勝手な憶測によって「You」と統合されて「We」として同一視されてしまうということが平然と起こりうるのである。
つまり、「わたし」と「わたしたち」の区別が明確でないことが多いために、一人称単数と一人称複数の境目が曖昧なのである。
 
 
まとめると、日本語は
・人称関係という「文法」の根幹に「自分と相手との上下関係」という現実の関係性が入りこんでいるという珍しい特長をもっている。
・そのために純粋な二人称という概念がほとんど存在し得ず、可変的なものである。
・また、「わたし」と「わたしたち」の区別が明確でないことが多いために、一人称単数と一人称複数の境目が曖昧である。
 
という特徴を持っている。
 
 
私たちは、言葉によって支配されている。口に出して話す外的言語が日本語ならば、口に出さない内的言語もまた日本語である。これは日本語に限った話ではない。英語のネイティブは、脳内でも英語で考えている。母語としている言語を脳内でも用いるというのは言うまでもないことであろう。とすれば、日常的な思考形態や考え方の癖のようなものも、当然ながら日本語の影響を受けざるを得ない。つまり日本人の思考方法は日本語の文法に大きく依存していることになる。であれば、さきほど挙げたような日本語の特徴もまた、当然ながら日々の思考形態に影響を及ぼしていると考えるのが妥当なことだろう。
であるならば、私たち日本語話者の間には以下のような思考癖があると推測できる。
日本語を母語とする人々においては、「わたし」を指す言葉はコロコロ変化し、「あなた」という考え方が希薄であり、「わたし」と「わたしたち」の区別が曖昧である、と。
ヨーロッパは東洋と比べて個人主義が発達している、という話はよく耳にするが、これは言語的な観点からすると、今まで挙げてきたような人称の捉え方の違いもまた一つのれっきとした要因だと予測できる。ヨーロッパ系の言語においては文法的に「わたし」と「わたしたち」では動詞が変化する。英語は例外的に人称による動詞の変化がほとんどないが「わたし」であれ「あなた」であれ、動詞が変化するので主語が常にはっきりしている。なので当然「わたし」と「あなた」の隔たりは明確であり、もちろん「わたし」と「わたしたち」の隔たりも明確で、差異は言葉それ自体が示す。
 
いたずらに欧米圏を自国の文化と比較して礼賛するのはいただけないが、こうした比較から考えるに、「あなたとわたしは違う人である」という、一見当たりまえすぎる前提が、じつは日本においては非常に希薄なのではないかとわたしは考え始めている。その結果として、「わたしが考えていることや価値観は、あなたも同じですよね」というある種の同一性への確信が無意識的に了承される。これは以上で述べてきたように、言語的にそもそもそういうものであるからだ。
こうした相対的な主語の希薄さに基づく同調性の確認作業こそが、「察してよ」という言葉や暗黙の了解の文化を形作る根っこの部分に、良くも悪くも強力に張ってはいないだろうか。
 
 
そもそも、自分以外の誰かをほんとうに理解するということは絶対に不可能である。なぜなら「わたし」は「あなた」ではないからだ。だから「察してよ」という期待に100%応えることは、テレパシーでも出来ない限り不可能だといえる。
 
誤解を恐れずに言えば、「察してよ」というのは「わたしはあなたと同じように考えている」という絶対にありえない自分勝手な妄想を相手に対して押し付けているに過ぎない。言ってしまえば「最高に自分中心的な妄動」といえる。もちろん、ある程度的確に「察する」ことが可能な場合もある。長年の付き合いやパターンから推測して相手の思っていることを読み取るといった具合に。しかしそれは一時的な満足感を得るにとどまる。そのときは「何も言わなくても分かってくれた」と喜ぶかもしれないが、その推測を外した瞬間「どうして分かってくれないの」という不満足にいとも容易く転落する。忖度という名の博打である。ギャンブルである。
「察してよ」というのは、相手への甘えであるのみならず、相手への過度な期待をかけるということでもある。そのギャンブルに負けた瞬間、相手の不信を促進させるのである。しかもそれは自分が蒔いた種でもあるというのだからいよいよ笑えない。あまつさえ「察してくれなかった」と被害者ヅラして自己を正当化するのだから、もはやこうなるともうどうしようもない。
 
 
ここまでさんざん日本語と「察してよ」文化をこき下ろしてきた感があるが、このようなハイコンテクスト文化によって、類まれなる一致団結性や情報伝達においてのある種の円滑さが生まれていることも事実である。「察する」ことによる非言語的コミュニケーションが成しうる円滑さは、その流れを解せない外部の他者から見たら恐ろしいほどだ。それは良くも悪くも排他性を産んでいるのだが。
実際に「察する」ことによってスムーズに物事が進む事例は多い。暗黙のルールとして様々な規則が決められているからこそ、公共の秩序が保たれ、伝統が栄える。
しかしそれは、一種の思考停止という、パスカルが言うところの「考える葦」という人間が人間たる所以を放棄することでもあるとわたしは思う。
ことあるごとにつけてあらゆる物事を考えすぎて、泥沼に嵌るのも害になる。進めるものも進めなくなる。だが世界が「察してよ」であふれかえることによって、既存のルールに対する疑問を微塵も持たなかったり、直接的なコミュニケーションを忌避したりするような状況もよろしくない。そもそも「察してよ」というレベルの関係というのは、よっぽどの親密さを経ないかぎり、そう易々と達成できるものではない。秩序のためのルールや伝統文化といった集合的な概念ならまだしも、個人対個人のレベルでの「察する」は、その個人それぞれの性向よって大きく異なるものであるから、それこそ直接に言葉にして伝え合う関係性を日頃から構築していないと達成できないものではないだろうか。
 
 
繰り返しになるが、自分以外の誰かをほんとうに理解するということは絶対に不可能である(そもそも自分自身さえ理解できるものなのか疑わしいとさえ思う)。それはなぜなら「わたし」は「あなた」ではないからだ。他人が何を考えているかなど決してわからないのだ。しかし逆に言えば、「わからない」ということを認識しているからこそ、人はあらゆるコミュニケーションの手段を用いて少しでも「わかりあおう」とする。その具体的手段として、自分の思っていることを言葉や文章として発して相手に伝え合うのである。おそらく、その繰り返しによってでしか相手との心理的な距離を詰めていくことはできない。「察してよ」というのは、そうした理解し合おうとする試みを自ら放棄している態度であるといえる。相手に「察して」と要求し続けている限り、よっぽどのことがない限り相手への理解は進むことはないし、相手からもなかなか理解しようと歩み寄ってもらえないだろう。
 
「わたし」と「あなた」が異なる存在であり、根本的に分かり合えない者同士であるという前提に立ってお互いに接しているか。
それとも、「わたし」も「あなた」も同じような存在であるという前提に立って接しているか。例えば、同じような民族、性別、出身地、出身校、思想、価値観だからなどという理由に無意識的にかこつけて、自分勝手な同族意識を持ち、「察してもらえる」や「相手も同じように感じているはずだ」などといった前提を勝手に持ちながらお互いに接しているか。この前提の違いは非常に大きいものだとわたしは思う。
前者の前提を持つ人と、後者の前提を持つ人が会話をするとき、他者への接し方というそもそもの大前提が異なるのだから、お互いの理解を深めることは難しい。おそらく会話がイマイチ噛み合わないということになるだろう。
そしてまた、あまり親しくない後者の前提を持つ人同士であっても、お互いの理解は進みにくくなる。それは意識してか知らずか、無言の「察してよ」の応酬となり、「なんでそんなこと分かってくれないの」といった共感の齟齬が生じることが度々起こるためだ。
 
「わたし」は「あなた」ではないという、自明の前提を認識しているか、認識していないかという差は大きい。
 
 
さて、「諦める」というのは仏教の言葉であるが、これは「明らかにする、はっきりさせる」という意味である。そしてこの「諦める」というのが人間関係において非常に重要な考え方だとわたしは思っている。つまり、あらゆる人間関係は「諦める」ことで上手くいくような気がしているのだ。ここでいう「諦める」には、ふたつの意味がある。
 
ひとつは、言わなくても「わかってほしい」「察してほしい」と思う心を「諦める=give up」こと
そしてもうひとつは、わざと言葉として発し、相手が考えていることを少しでも「諦める=明らかにする」ことだ
 
 
世の中にはこじれてしまった人間関係がありふれている。痴情のもつれから国家と国家の対立まで含めて、あらゆる人間関係の対立は、ひとことで片付けてしまえば、コミュニケーションの不足に起因しているとわたしは思っている。つまりあらゆるこじれは、相手のことをわかっていないために起こる。もっと的確に言えば、相手のことをわかろうとしていないために、もっと知ろうとしていないために起こっているものである。言語的な思考のパターンの違いも含めて、ニュートラルな理解への耳を傾けるということは原理的に非常に難しいからだ。
そうしたあらゆる対立は、もうさっさと「諦める」ことでしか解決しないのではないかとわたしは感じている。なぜならば、どうせ人と人は永遠にわかりあえないものだからだ。
 
 
逆説的かもしれないが、わからないということがわかっているからこそわかりあえるのだと、わたしはそう思う。