しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】思考のアウトソーシング化

 

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 シベリアやアラスカ、グリーンランドなどの北極圏に近い高緯度地域に住む先住民族エスキモーは、「雪」を表す言葉をたくさん持っているといわれ、正確な数字は定かではないが、7種類とも、52種類とも、はたまた400種類もあるという説もある。これはつまり、それだけエスキモーにとって雪が生活に近しい存在であるということを示している。

 同様に、日本では「雨」に関する言葉が他の言語と比較して豊富であるといわれている。大雨、霧雨、しぐれ、天気雨など、また降る季節によって名前が変化し、川柳や俳句にこれらが用いられてきた。このことから日本では昔から雨がよく降る気候であり、雨が生活に身近な存在であったことが分かる。

 言うまでもないが、こうした言葉の数々は、その土着の言語文化の中で過去に作られたものであり、過去に誰かが生み出したものである。つまり過去の人々の思考によって作られた言葉であり、今を生きている我々が新しく生み出した言葉ではない。だが思考は、言葉によって形作られ発せられる。つまりエスキモーの雪に限らずすべての言葉が、過去からの借り物であるということになる。だから言葉として存在しないものは考えることができない。かつてインド人がゼロの概念を発明しなければ、ゼロは存在し得なかったように、我々はエスキモーの雪の種類を理解することができない。

 

 このように私たちは、すでにある借り物の言葉によって思考を支配されているといってよい。そして言葉は思考を形作っている。そうした過去からの借り物である文法や語彙によって形作られるわたしたちの思考の流れの速度は、インターネットの登場により、ますますその速度を増した。インターネットは従来の情報入手手段であった紙媒体や対面の人間といった物理的な制約を排除することに成功したのである。一人ひとりの人間が入手できる「言葉」もとい「情報」の量が格段に増加したというわけだ。
 

 インターネット社会においては、ますます多くの人々が、行動や考えの規範の拠り所のほとんどを自己の外側へと「委託」しつつある。言い換えるならば思考のアウトソーシング化が加速しているといえる。アウトソーシングとは、外部委託という意味である。会社の業務においてしばしば用いられる用語で、技術やノウハウをもたない会社が、専門の業者に仕事の一部、あるいは全部を委託することである。

 インターネットはまさに、思考のアウトソーシング先としてはうってつけの存在となった。なぜならば、未だかつてこんなにもたくさんの「私的意見」を入手できる空間はなかったからだ。

 もちろん、ネットが登場するずっと前から、自己の考えの拠り所を自己の外側に求めることは存在している。それは例えば、読書を通して学んだり、専門的な知識や経験をもった人から話を聞くことによって教わったりするというものである。宗教を奉ずるというのも、その一つの手段といえるだろう。尊敬する人の行動や考えを知って、その人の真似をしたりするという言わば「模倣」は、先人の知恵や経験を活かした効率の良い学習に非常に有用である。そもそも「学ぶ」という言葉は、「真似る」という言葉と同じ語源であるという説があり、学ぶことは真似ることと同等なことなのだといえる。「自分の頭で考えなさい」とは、よく言われることであるが、何か新しいことを知るということにおいては、先人の知識や経験をそっくりそのまま借用することが有用であることは、どうやら語源を見る限り昔から変わらない自明のことであるようだ。先人の知恵を借りることは、何かを「学ぶ」際にはとても効率が良いのは言うまでもない。

 
 ただし、分量の多い物事が「大味」になるのは世の常みたいなもので、私たちが入手できる「言葉」が増えれば増えるほど、一つひとつの言葉を丁寧に咀嚼する余地も少なくなっていく。言葉に含まれる「意味の濃さ」を考えることができなくなっていく。「言葉」が多すぎて時間がいくらあっても足りないからだ。
 そもそも人間自体が特別進化もしていないくせに、今までなんかよりも圧倒的な情報量を処理しなければならないのだから、ついていけなくなるのは至極当然のことだとわたしは思う。それこそ脳にコンピュータでも埋め込まなければ溢れる言葉を処理しきることは出来ないぐらいに。 
 こう考えていくと、ネット社会に生きるわたしたちは、言葉や文章を、その意味を吟味し咀嚼をするものというよりも、情報として収集し摂取するものとして捉えつつあるのではないかとわたしは思っている。食事になぞらえるとするならば、味わって食べる料理から生命活動の維持のための栄養摂取になっていくようなものだとわたしは勝手に思っている。
 ここにきて、「言葉」は「情報」と類義語となりつつあるのではないかとわたしは勝手に解釈している。もっと正確に言えば、「言葉」が「情報」の様相を帯びるのである。なぜならそこには、その言葉が「益になるか否か」という概念が闖入しているからだ。当人に有益をもたらす言葉。あるいは金銭的な利益をもたらす言葉。世の中に言葉が溢れかえっていけばいくほど、言葉は情報になっていく。溢れかえった言葉の中から即効性や益をもたらす言葉ばかりを選別し、ふるいにかけた結果、「言葉」は「情報」へと変化する。
 
 
 だから、「情報」に「情」もへったくれもない。
 
 

 話をもとに戻そう。 

 ではネットの登場と、それによって人々の思考のアウトソーシング先が専らネット上となり真似られたとき、どのようなことが起きるのか。 

 

私たちは、「速度」を得る対価として、「熟慮」を失った。熟慮を失うということは、(中略)判断力や適正な知覚の能力を放棄することに等しい。
「速度」が重要となるネットにおいては、思考は当然「反射的」となる。いかにすばやく反応するかが重要であり、じっくり考えるという「反省的思考」はむしろ邪魔もの。しかし、反省的思考こそが、私達の知性の正当性を担保する根幹である。
 
高田明典『ネットが社会を破壊する』pp.129-130

 

 高田はネットの広がりは反省的思考を衰退させ、反射的思考が社会を覆いつつあると指摘する。そして同時に、反省的思考の重要さを説いている。反省的思考があるからこそ、自分が体験したことや学んだことをしっかりと反芻して、インプットでき、新たな意味や意義を生み出す者と成り得るのだという。
 反射的思考によって得られるインプットというのは、本当に文字通りただのインプットでしかない。プログラムに値を入力するようなものだ。オウムに言葉を覚えさせたり、犬に芸を覚えさせたりするのと大した差はない。だからアウトプットもまた、いつも変わらない詩の暗記朗読のようなものになる。文字通り反射的なロボットのような反応になる。
 ただしそれは本当にアウトプットといえるのだろうか。それはインプットした言葉や情報をただ左から右へ流しているだけでしかない。入力された値を出力するだけならコンピュータでいいし、コンピュータにやらせたほうがずっと速くて正確だ。入力された値を自分勝手に作り変えてしまうことはコンピュータには出来ない。そんなめちゃくちゃなことは人間にしかできない。しかし「そんなめちゃくちゃなこと」からしか新しい何かは生まれないとわたしは思っている。「そんなめちゃくちゃなこと」こそ知性であると高田は指摘している。
 
 
 何度も言うように、インターネットへと思考をアウトソーシングしてしまえば、熟慮は必要ない。必要な知識は、検索さえすれば大抵のものは手に入るようになっているからだ。これは情報としての知識だけにあてはまるものではない。あるお題に関しての個人的な意見を求められたときも、インターネットが外注先として受け入れてくれることもある。
 つまり、ネットから「自分の意見」を拾ってくることができるようになっているのである。ワールドワイドウェブでは広大である。ブログや掲示板、ソーシャルメディアなど、個人の感想や意見を発言する場はそこかしこに用意されており、検索さえすれば容易に意見を探してくることができる。例えば「消費税の増税についてどう思いますか」といった意見を求められた際は、「消費税増税 問題点」と検索すれば、個人的な意見を綴ったブログから専門家の意見を載せたネット記事まで広く見つけてくることができる。ネットでは自分と同じ意見を持つ人や、強く共感できる意見がほぼ必ず存在しており、私たちが自分の頭で考えてまとめなくとも代弁してくれるのである。ただ単に気に入ったその言葉を覚えて繰り返せば、即席で立派なエセ自分の意見が完成する。自分の意見や自分の感想は、まるでカップラーメンでも作るかのような手軽さを獲得した。そこに熟慮を挟む余地はない。というよりもむしろ、熟慮を挟む必要性がない。ここに至ってまさに完全なる思考のアウトソーシング化が完成する。「エスキモーの雪」で述べたように、私たちは、すでに社会にある言葉によって思考を支配されている。だが、情報化社会においてはさらにそれが激化する。つまり私たちは多かれ少なかれ、すでにネットにある意見によって思考を支配されているのである。自分のアタマで考えなくてもよい時代はもうすでに到来している。
 
 我々はインターネットというとんでもない代物へとアウトソーシングしてしまっているかもしれない。それは我々の人間としての処理能力と比較するまでもなく、容量しかり速度しかり、圧倒的である。それは我々が脳で情報を処理して考えるよりも先に、新たな情報を次々と提示していく。それは我々に深く考えている時間を与えない。
 
 
 
今日もまた、タイムラインに出てくる情報を摂取して生きていく。
 
 
――言葉が多すぎます。
といって一九九七年
その人は去った