しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】愛と尊敬、期待と執着

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字ヅラは違うけれど、本質的には同じことを指し示している言葉って、実は結構多いんじゃないかと思っている。言葉の意味は一見結構違うけれど、意味するところは同じである言葉同士、その一つに「愛する」と「尊敬する」があるとわたしは思っている。愛している人は尊敬している人であり、尊敬している人は愛している人なのだ。

 

というわけで、実は尊敬すると愛するは同じものだという主張を述べていきたいと思っている。そして同時に、ほんとうの意味で尊敬したり、愛したりすることは、不可能なのではないかと思えるくらいに困難なことだということを考えたみたい。なぜそれが困難なのか。結論から言うと、尊敬にしろ愛にしろ、いともたやすく執着の罠に嵌ってしまうものであるからだ。
 
たとえば「無償の愛」なんて言葉があるように、わたしの考えでは、本質的に愛するときには、根拠は全く必要ないものだと思っている。「理由なんてないけれど(分からないけれど)好きだということが「愛する」ということだと思っている。別にその人やそのモノに特有の優れた能力があるとかないとかそういうことは全く問題ではない。それがそのままの姿でいてほしいと願うこと。また、いまその人やモノが歩んでいる道をそのまま突っ走ってしまえ!と願うこと。そして何よりも、そんなその人の姿を見ているだけで、自分までもが、なんだかよく分からないけれど暖かい気持ちになれること。理由なんてないけれど好意的に思えること。おそらくそれが、真に愛するということだ。ほんとうに愛するということには「〜だから好き」なんて小賢しい考え方は無いんだと思う。
 
愛するということ。つまりその人に対して純粋な気持ちで「ああ、なんだかこの人いいなあ」と思えること。この気持ちって、他のどんな感情よりも尊いものなんじゃないかと思っている。けれども残念なことに、この感情が出てくることは滅多にない。例えば、その人が自分との比較の対象として、競争する相手として自己の中に据えられてしまうことはよくあることだ。そうやって比較相手として据えてしまったときに出てくる「怒り」や「憎しみ」あるいはその後の「悲しみ」などといったような、一般的にいうネガティブな感情が、その純粋な気持ちの前に立ちふさがってしまう場合が多い。こうなると、もうそれは愛しているとはいえない。
「確かにあの人はすごいけど、でも他のことだと大したことないんだろ。いや、大したことなくあってくれ」などといった欠点の粗探しや、本当はダメな人だろう願望とか、「いや、自分だってこれくらい出来るし」といった対抗心を抱くようであるのなら、それは尊敬しているとか、愛しているといった次元に達していないのだと思う。その態度は、その人自身を見ているものではなくて、その人の肩書きや能力を見ているものだ。目に見えるもの、測れるもので理解しようとしているということだ。更に言い換えるならば、「あの人は自分の理解できる範疇の人なのだ」となんとかしてカテゴライズし、頭で理解しようとコントロールする態度なのだ。あらゆる相手は制御可能な存在であり、理解可能であるという「己の驕りと卑しさ」がそこにはある。あなたはあなた。他人は他人。誰かが誰かの代わりになることは不可能なのだから、どうあがいたところで本質的に相手を理解することは不可能だし、そうやって表面的な能力を自分と比較したところで、何も良い結果はもたらされない。比較によって生まれるのは、劣等感か優越感。それは自分で自分のことを奴隷にするか王様にするか決めることであって、どちらにせよ自縄自縛をもたらし、自分の行動範囲を狭める。
 
だから思うに比較とは、執着の副産物である。
 
このように、なんとしてでもその人を、自分の理解が可能だという意識コントロール下に留めておこうとすること。それはある種の執着である。執着とは一見、愛とよく似通ったものであるが、似て非なるもの。その性質は正反対である。わたしの考えでは、執着とは「相手を自分の思い通りにしようする意志」のことを指すのに対し、愛とは「その人がそのままでいてくれ、好きなように動いてくれ、という願い」を指すように思っている。
 
執着には「意志」があり、愛には「願い」がある。
 
けれども残念ながら世の中で溢れている、愛と呼ばれるもの多くが愛ではない。実際のところ、そのほとんどが愛という衣を巧妙に被せた執着なんじゃないかというような気がしている。
「◯◯という肩書きがあるから好き」とか「お金持ちだから好き」とか「外見が好き」などといったものは、すべて愛ではなく執着である。なぜなら、以上で挙げた要素は、どんなに社会的にすぐれたものであろうとも、また、どんなにその人が苦労して手に入れたものであろうとも、すべて「その人自身」ではなく、「その人の外側にくっついている飾り」でしかないからだ。アクセサリーだからだ。つまり簡単に取り外しが出来るものであるし、似たようなものと簡単に交換可能であるものだからだ。「給料の高い大企業に勤める恋人」がある日突然クビになり、お金を無くしてしまったとしたら、あなたはその人を嫌いになるのですか?無価値だと思うようになるのですか?という疑問に対し、YESと答えるようであれば、あなたがほんとうに好きなのはお金です。それは愛ではなく、執着です。アクセサリーがなければ愛せないのなら、あなたが本当に愛しているのは、その人自身ではなく、アクセサリーです。相手を利用しようとしているのなら、相手に愛しているなどと嘘を言うのはやめてさっさと「あなたのお金が好き」と伝えましょう。それで相手が「うん、いいよわかった」と言ってくれるのであれば何も問題は無いです。スイスの傭兵のような契約関係です。それも一つの立派な利害関係です。ただ金の切れ目が縁の切れ目だということは忘れないようにしましょう。
 
 
さて、このような愛と執着の倒錯といえば、親子の関係でもしばしば起きている問題だとわたしは思っている。
たとえば、親がその子どもに「あなたには、こういった道を歩んで欲しい」と仕向ける態度。あるいは、自分の果たせなかった夢を子どもに託すというキレイな言葉をもって、「夢を叶えて立派な人になれ」と期待をかける態度。一般的にこうした親の期待する態度は、子どもを立派な人に育てるための姿勢だということで「子どもに対する、親として良い向き合い方である」と世間からは評されることが多い。それに加え、親の方も「子どもが立派な人間になることは素晴らしいこと」だと、自分の子どもに対する態度を良いものだと考えている。その期待こそが子どもに対する愛だと自身で見なしている。
しかしわたしには、どうしてもこの態度が正しく愛を向けた姿勢だとは思えない。なぜならば、こうした態度は「相手(=子ども)を自分の思い通りにしようする意志」を強く備えていて、それは親の子どもに対する執着なのではないかと思うからだ。こうした態度や言葉には、その後ろ盾として「子どもが将来困らないように」や「幸せになるようにするため」という美辞麗句を添えて語られるものだが、それさえも親自身の価値観の一方的な押し付けである。何が幸せかは、実に人それぞれで異なるものである。親の思う幸せが子どもの思う幸せと同じと思い込んでいるために起こる押し付けである。親自身が「こうすれば幸せになる」と信じ込んだ思い込みを子どもに押し付けているだけで、ほんとうに幸せにしたいと思っている相手を突き詰めて考え抜いていくと、実はそれは子どもではなく自分自身となる。立派な子どもを持つ私自身(=親)が安心するから、親自身が世間や親戚に顔向けできるから、老後の世話をしてくれるだろうから、子どもには自分の思い描くような通りになってほしいとコントロールするのだ。言われた子どもの方もバカではないから「ここまで育ててくれたのは両親のおかげだから、親が望むような人にならなくてはならない」と期待に応えようとする。「親の望む人になること」は、もはや生まれた時点で背負わされた一種の贖罪のようなものだと思い込まされている。
「親がいなかったらここまで生きてこられなかったんだ」と「誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」というこの二つセットは、双方の立場に切り札のごとく鎮座しているイデオロギーであって、まるで核抑止力のようになっている。そしてこの最強の楔は「何のために親の言うことを聞いて頑張っているのか」という疑問を持たせなくすることにも寄与している。たとえば親が「そんなことを考えている暇があったらさっさと勉強しなさい」と言ってしまえば、もう子どもには逆らうことが出来ない。「何のために勉強するのか」という一つの答えに定まらない深い質問は、その回答の内容如何で、親の子に対する執着心を子どもに露呈してしまう危険性さえ伴っていることを、親は浅ましくもよく自覚している。そもそも親自身がそんな疑問について深く考えてこなかったため(考える必要も無かったため)、そういって会話をぶった切ってしまえば自らの無知さを子どもに露呈して恥をかくことも回避できる。
幸せになってほしいという誰も否定できない綺麗な言葉を使って、本当の意図を隠すのはもうやめてしまえばいいとわたしは思う。「こんな立派な子を持つわたし」として周りから羨望されたいから、子どもであるあなたを育てている」と伝えてしまえばいい。それが親であるわたしが子どもであるあなたに対する愛するということなのだと、伝えてしまえばいい。「わざわざ育ててやってるんだから、それくらいの見返りは寄こすのが当然だよな」と伝えてしまったほうがいい。変に「期待している」だの、「あなたの幸せを願って」だの云々いって、プールの端っこのヌルヌルみたいな気持ちの悪い、お互い傷のつかないような体を装うほうがよっぽど風通しが悪いとさえわたしは思ってしまう。
 
それは子どもを自分のおもちゃのように扱っている態度であって、あたかもぬいぐるみを操っているかのように、全くもって制御可能な存在としてコントロールしようとしている態度なのだ。
そういった意味において、わたしは彼らの子どものことを「子"供"」と称するほうが正しいのではないかと思っている。なぜなら、親の期待の押しつけを受け入れ、自分自身を親に捧げる存在、つまり「親に供するもの」という意味をもってしまっているからだ。そうした「親」と「子供」のある意味切っても切れない強烈な依存関係は、考えることを放棄して、相手の言いなりであり続ける。「子供」はそうやって親の期待に無事に応え続けることによって、親にとって扱いやすいおもちゃとして、真に自立した意志を持たない存在と成り果ててゆく。
このように考えていくと明確になることは一つである。「期待」という言葉も、一見キレイな外見をまとった言葉ではあるが、執着のパラフレーズということだ。それは執着なので、愛ではない。執着と期待は類似語だといえる。
よって、真に子どもを愛する親は、おそらく子どもに「期待」など少しもしていない。幸せになって欲しいとただただ願っている。
 
全世界が待望なんかするから映画はつまらなくなる。
 
何度も述べているが「相手をコントロールしようとしているか、していないか」。単純に言えば、これが愛であるか執着であるかの最も異なる点であり、最も重要な違いだとわたしは思う。
 
 
 
さて、愛するということについて、それと一見よく似た執着の話も交えて語ってみたので、尊敬することについても少し語ってみようと思う。
 
おそらく、尊敬する人に対する姿勢のほうが、愛する人に対する姿勢ほど執着にまみれている度合いが少ないのではないかと思っている。それはなぜかというと、一般的に「尊敬している相手」を思い描いたときに、自分の競争相手として据えることが少ないからである。尊敬する相手は大抵の場合、自分とは競争相手にならないほど優れているために、勝負にならないと捉えるからだ。潔く負けを認めるしかないからだ。そしてまた、尊敬する人は「自分の理解できる範疇の人」であるというカテゴライズが不可能な事が多く(例えば武道の師範が考えていることや視点は入門者にとっては理解がしがたいものである)執着の罠にも陥りづらい。比較する態度が生まれにくいのだ。比較は執着の副産物ということから鑑みるに、尊敬することは執着の度合いが少ないといえるだろう。
執着とは、相手をコントロールしようとすることだ。だが尊敬する人は、往々にしてコントロール不可能な対象なのだ。
 
では尊敬することには、執着が全く無いかと言われたら、それは間違いである。それどころかむしろ大いに執着している。尊敬することがもつ、執着への大きな罠を見落としてはいけない。たとえば「なぜあなたは、あの人を尊敬しているのですか」という質問に対し、多くの人はこのように答えるだろう。「あの人は、こういう技術や能力がとても優れているからです」と。技術や能力が優れているから尊敬している。尊敬することの根拠として、これ以上ないほど優れた回答であるとは思う。しかしアクセサリーなのだ。技術や能力さえ、その人の中核を成すものではなく、お金や名誉と同じクラスに属する外側のアクセサリーなのだということを。そういう場合に多いのは、そうした技術や能力を持つ人に媚びへつらって、なんとか自分の利になるよう気に入られようとしようとする人が必ずいることだ。尊敬する先生のその技術を学びたいというよりも、尊敬する先生の周りにいることで、おこぼれをもらいにいく。それこそが彼らの目的であるから、そもそもその先生を尊敬などしていない。もはや技術を学ぼうなんてさえも思ってもいないかもしれない。だから逆に平気で「本当に尊敬しているんです」などと簡単に口から出すことができるし、十分に甘い蜜を吸ってしまえば先生には用無しとなるから簡単に去っていくこともできる。変に「いやー先生の作品はいつも凄いですねー尊敬しますよ」などと大根芝居を打つのは気持ちが悪い。そういう心にも思っていないようなことを口に出すぐらいだったら、こう言ってしまえばいい。「先生、わたしはあなたにしか出来ないその能力を学びたくて来たのではありません。先生の周りにいれば、先生や集まってきた他の人たちを利用して、何かチャンスがあるかもしれないから、先生に気に入られたいのです」と。
だから尊敬というのはある種、誘蛾灯のようなものなのだろう。
 
つまり、そうした尊敬は尊敬ではなく、執着だといえるのだ。「人格として尊敬できる」という場合を除いて、尊敬はそのほとんどの場合、アクセサリーの優秀さ崇めていることが多い。
 
 
お金や地位のある人を好きになって愛する、エセ愛する。そこにあるのはお金や地位への執着である。
技術や能力のある人を仰ぎ見て尊敬する、エセ尊敬する。そこにあるのは技術や能力への執着である。
その人が持つお金や地位、技術や能力といった外側の要素を一切に勘案に入れず、純粋な気持ちで「ああ、なんだかこの人いいなあ」と思えることが、ほんとうに愛するということなのだとわたしは思う。それは理屈ではない。その相手だけを純粋な気持ちでまっすぐ捉えることであり、人格を愛することなのだ。人格は交換不可能なものだから、それを愛することは、とても尊いものだ。そして忘れてはいけないのは、その人を、一人の人格を持った人間として素直に尊び、敬意をもって接することだ。これは尊敬すると言い換えられる。だから、愛することとは尊敬することだとも言える。
よって、尊敬することと愛することの間に大きな差はないということになる。どちらも交換可能な言葉なのだ。
 
 
いろいろと毒づいてきた。わたしは愛と尊敬、期待と執着はコンパスのようなものだとわたしは思っている。愛と尊敬はおなじもの。期待と執着はおなじもの。コンパスにはNとS、WとEがある。地球は丸い。今いる場所から北へ北へと行けば、いつかは南だった場所にたどり着く。だからNとSが指し示す方向は、マクロで見れば同じ。同じようにEとWでも同じことができる。東へ東へと行けば、いつかは西だった場所にたどり着く。だからEとWもマクロで見れば同じ。
ただし北へ北へと南を目指すとき、そこにWやEが入り込むと、ぐるっと一周したとて少しズレてしまう。だから同じところには行き着かない。
南を目指して北へ歩くとき、少しも東や西にずれることなくまっすぐ歩くことなど難しい。たった0.1度のズレでさえ、たくさんの距離を行けば行くほど目的地からは大きく外れていく。
 
まっすぐと尊敬したり愛したりすることは、それくらいにむずかしいことだとわたしは思う。
 
あらゆる期待や執着を拭い去った果てに、愛と尊敬は同一のものとなる。