しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】空白にこそ、進歩は宿る

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社会が進展して食べ物は捨てるほどたくさんあるし、スマホもあるし、タダでできることも増えたし、こんなにも便利な世の中になったのに、なぜまだみんな忙しくて、どこまで頑張らなきゃいけないの?と思うことは多い。わたしはそもそもこの「頑張る」という言葉も好きではなくて、この言葉ってなんだか「ほんとうはやりたくないことを、無理してでもやり続ける」みたいな意味合いが見え隠れしてしまっているような気がしている。なにしろ「頑なに、張る」のだから、意地になってやっているというニュアンスが頭にチラつく。

 

真面目でいつも気丈に振る舞う女の子とかが「わたし、頑張らなきゃ」とかなんとか言って、その無理な作り笑顔で汗を流しにいく姿なんかを見ていると、その子を応援したくなるどころか「世間よ、もうこの子をこれ以上いじめないでおくれ」と悲嘆に暮れるような気分に陥る。「頑張る」という言葉には、一見(一聴?)それを聞いた人にポジティブな気持ちをを喚起させる力の仮面を被っているが、その裏側に、このように何かネガティブな気持ちを喚起させる力が隠れているんじゃないかという気がしている。少なくともわたしはネガティブの方を受け取ってしまう。以上の理由から、わたしは「頑張る」という言葉が好きではない。だから意識的に使わないようにしている。
 
頑張る人は多い。ただ、よくよくその内容を聞いてみるとしなくてもいい苦労をしている人もいて、「じゃあなんで続けているの」と聞くと答えに窮するということがあった。自分でもなんでそんなことをやってるのか分からなくなっている。となると目的を失った手段となってしまう。手段そのものが目的となっているならその人は幸せだろうが、どう見ても辛そうにしていたりするともう理解の範疇を超えてしまう。ドMなのかと思わざるを得ないことも多い。単純に「辛くて、苦しくて、イヤだけどそれでもやり続ける」ってとても不自然な状態だと思うのだけれど。
各々事情や経緯は違えど、何らかの形で自分自身に対して嘘つきになってしまっている人は結構いるのではないかと踏んでいる。イヤだけど何かを続けるではなく、楽しいから何かを続けるっていう人が増えたら、きっとより多くの人々が「頑張らなく」なっていくはずだ。そんなありもしない理想を掲げたとしても、実際にはイヤでもやらなければならないという人の方が今の世の中の圧倒的な現実なのだから、きっとわたしは現実から目を背ける夢見る夢子ちゃんで、「なにを腑抜けたことを言っているんだ」と叱られるのだと思う。
 
多方面からお叱りの声を受けることを覚悟しながらも、敢えて恐れずに言うとしたら、もう「頑張って」経済とか回さなくていいんじゃないのかなと思ってしまうのである。もう十分に便利で素敵な世の中になったので、「もうこれ以上新しい物を売り続けなくていいよ!お疲れ様!ありがとう!」と声をかけたくなる。それによって、いくらか世の中が不便になったとしても、それはそれでいいのではないかとわたしは思う。日曜日にスーパーが閉まっていたとしても生活は困らない。正月にコンビニが閉まっていても全然OK。仮にそれで重大な支障をきたすような世の中だとしたら、それはもう世の中のあり方のほうが間違っているとわたしは思う。
 
 
ほんとうは必要のないものを、さも絶対に必要なものであるかのように、まるで脅しでもかけるかのように宣伝をして売りつけなければならないような世界はどうなのだろうかと思ってしまう。ある会社が潰れて、ある商品がこの世から無くなったとしても、それで世界が消滅するわけではない。『心配事の9割は起こらない』なんていう本もあるが、それと同じテイストで、「巷の商品の9割は実は必要ない」なんて思ってしまう。単に自分が怠け者だということも自覚しつつ、こんなことを考えているから、きっとわたしと世間との間に大きく乖離が生まれてしまうのだろうなあと思っている。
いつから、こんなにも「労苦礼賛」が正当化される世の中になってしまったのだろうか。「努力してなんぼ」という言葉が語られるときにその背後にあるのは「とにかく頑張れ」であり、「俺が若いときはもっと苦労した(んだから同じ苦しみを味わえ)」という言葉の背後にあるのは「憎しみ」だと思う。そしてその憎しみの対象は、実のところ「努力をしてない人」に対してではなく、苦しみを自己に与えた世の中に対してなのだとわたしは想像している。
 
 
あらゆる労働には、避けられない苦しみが伴うのだという点を高らかに掲げて全面に押し出し、「苦労の量こそ立派な人の勲章だ」などと嘯くのは、間違っているとわたしは思ってしまう。それは自己正当化に過ぎない。そういう話を聞くたびに、その人は苦労の中身ではなく、苦労そのものを正当化しているだけだと感じる。次の世代の人たちには、自分の味わった苦しみをなんとか回避して、楽しく効率よくやってもらいたいという「同じ轍を踏むな」的な考えの人が増えたら、もっと優しくて、もっと多くの人が進んで働きたくなる社会になるとわたしは踏んでいるのだけれど、どうだろうか。
結局のところ、資本主義経済で、苦しんで「頑張る」先に手に入れられるのは、いつだってお金であり、そしてそれに付随する地位であり、お金こそパワーなのである。「年収いくらですか?」の答えによって相手の価値が値踏みされる。そんな経済至上主義のこの世の中において、どうしたって見え隠れしてしまうのは、そうしたお金の「圧倒的正しさ」みたいなものである。お金は正義なのである。ちょっと尋常じゃないレベルで正義なのである。お金は食べていけるだけ持っていれば十分なんじゃないかなあと思うわたしみたいな人は、社会不適合者でしょうか?経済はたくさんお金を使って回さないといけないものだから、きっと役立たず呼ばわりされるのでしょう。そうです。わたしは社会不適合者です。まあ、いいです。それで。
 
 
お金が持つ、圧倒的な正義の正体をうまく言葉で表すことが出来るかわからないけれど、その尋常じゃなさをまとめるならば、つまりこういうことだろう。「お金で交換可能な物事が、何か越えてはいけない一線を越えて侵食しまくっている」ということ。そもそも生まれたときから資本主義経済の中で生きてきて、お金を払うことが当たり前のことだと刷り込まされているはずだったのだが、ときどき「え、そんなことするのに、お金必要なの?」と思う場面があったりする。例えば、携帯ショップで、スマホの初期設定に代金を請求するシステムがあったときはビックリした。例えば「メールアドレスの初期設定、¥1000」といったような感じのメニューがたくさん並んでいる。これは、なんでもかんでもタダでショップ店員に設定をやってもらおうと、長居して1ブースを独占し続けるような図々しいお客さんに対する対策として、お金を提示することで制限するために設けた対策なのだろうということのは、もちろん分かっている。それを重々承知の上で、何かがおかしいと感じてしまう。何か越えてはいけない一線を越えてしまっていると感じる。そしてこう思うのだ。「そんなこと別にショップ店員さんじゃなくても、近くの誰かに聞いたらいいじゃないか」と。
 
より多くの人がコミュニケーションを取ることに億劫になっていきている気がする。というよりも、コミュニケーションをとる手間さえもお金によって省いていこうという流れがあるように見える。この点を考えるにつけ、わたしは、お金の本質とは「コミュニケーション省略のためのツール」なのではないかという感想を抱く。かつてお金というものが無かった時代、人々はそれぞれが出来ることを分担し、それらを交換して暮らしていたいわゆる贈与経済だった。そして物の価値という尺度を決めるお金の登場によって、そうした交換という手間のかかるコミュニケーションを省略することに成功したのだった。お金の力によって独立は担保されたが、その分コミュニケーションでタダになるはずのものにさえお金で解決されるようになった。「対価とは手間賃のことである」とはよく言ったものだが、コミュニケーションも手間としてお金で省略してしまえるようになった。その結果、コミュニケーションの手段であるはずのスマホの簡単な初期設定も有料プランとなった。
 
コミュニケーションを廃して、なんでも自分で出来るようになり、独り立ちする。「誰にも頼らず独立する」と表現すると聞こえはいいかもしれないけれど、その実、とても無理してまで独りになっていたり、世間体を気にした体裁としての独りを進んで受け入れようと「頑張って」いる人って結構いるのではないかと思っている。インターネットとスマホが出てきて、ある意味つながる社会になったはずなのにもかかわらず、物理的には独立しているけれど、精神的な部分で孤立している人は多くなっている気がする。
 
「つながりが極大化した世界において、つながりが極小化した」
そんな逆説的な世界が訪れているような気がしている。
 
 
「時短家電」なんて言葉があるけれど、昔ってそんな言葉もモノも無かったのに、それでも社会のスピードに人々が全然ついていけなくなってしまってゲームオーバーみたいなことにはなってなかったし、もっと言ってしまえば、むしろ昔の方がなんかこう、全体的に「ゆったり」していた気がするのだけれど、どうだろうか。今の時代ってそんなに「時短」しなきゃどうしようもならないほど忙しいんですかね。だとしたら、それはどうしてなんでしょうか。安易に「昔はよかった」で済ませるのは間違っているということを念頭に置きつつも、肌感覚として「余裕」の無い世の中にどんどんなっていっている気がしている。機械がたくさん発明されて、便利な世の中になったのに。でも、便利なものは素敵です。
 
そうした機械の登場って、「もっとラクしよう、もっと何もしないようにしよう」という考えの具現化のはずなのに、どうして誰もラクになってないのかなあ、逆に忙しくなっているのかなあと、疑問を感じている。それともみんな、わざと忙しいふりをしているだけなのか。もし忙しいことをアイデンティティにして「私、忙しいわあー大変だわーツライわー」と言っている人がいたら、「それはちっとも誇るべきことじゃない」と優しく教えてあげたい。「忙しくしていなければならない」と無意識的に思い込んでいたり、「忙しくしていないと、暇になったときに何をしたらいいのか分からない」という人もたびたび見かけるが、これもなんだか寂しいように思えてしまう。厳しい言い方になるかもしれないが、そうやって忙しいことを言い訳にしている人は、それだけ自分自身と向き合うことを避けようとしているようにさえ思えてしまう。その忙しさの恩恵として、例えばどんなに金銭的に豊かになっていたとしても、その分、自分の内側の充足感は満たされず、空虚な「自分なき自分」であり続けているのではないかと思ってしまう。人はしばしば、お金持ちの人を羨むが、当のお金持ちっぽい人の話を聞くたびにわたしが思うのは、あまり幸せそうには見えないということだ。仕事で悩みを抱えていたり、まだまだあれもこれも欲しいと言っていたり、はたまたお金を失うことに怯えていたりする。そういったところを見てわたしが思うのは、お金によってどんなに自分の外側ばかりを豪奢なもので繕ったとしても、それによって本当に心が満たされることはあるのだろうか、と勝手ながら疑問を感じている。こんなにスゴイ車に乗っているからとか、こんなに広い家に住んでいるから、自分は幸せだという物理的な根拠に依ってしまうのは、なんだかとても浅いと感じてしまう。もっと適切に表現しよう。良いものを持っていて、それを大事にしているのならば、それは幸せなことだしそういう人を全く否定するつもりは無い。しかし良いものを持っていて、それを他人に見せつけて自慢したり、持っていない者を蔑んだりすることで溜飲を下げて悦に浸るのは、寂しいことだと感じる。
 
それよりも、どれだけ時間をかけて自己と対話し、自分は何者か、何をしていると楽しいか、本当に欲しいものは何かなどといった問いを続けたかが重要で、それに対する答えを求め続けてはじめて自分の内側を満たすことができるのではないかとわたしは想像している。だからわたしは、お金持ちになるよりも「自分の時間持ち」になる方が豊かな人生を送れるようになれるのではないかと考えている。ただし現代の世界では、時間さえもお金によって買えてしまうから、結局のところ「世の中は金」なのかもしれない。と考えるにつけ、「世の中ね顔かお金かなのよ」という上手く出来ている回文が浮かんでは、なんともいえない気分に陥る。
 
 
 
古代ギリシャにおいて、労働は死よりもツライことだという認識があったらしい。逆に「なんにもしていないこと」が最高に価値あるものという認識もあったようだ。それでは、日常でどうしても発生してしまう雑務からどうやって逃れていたのかというと、そういった雑務は、戦争で連れてきた奴隷にやらせていた。当時は「労働は死よりもツライ」がキーワードであるということを考えると、戦争に負けて奴隷になってしまうということは、死よりも苦しいことだということになるし、実際にそういう認識だったようだ。
それでは、ギリシャの暇人どもは、何もしてない時間で何をしていたのかというと、別に木とか草みたいに日向ぼっこしながらぼけーとして一生を終えていたわけではなく、学問したり語り合っていたりしたのだった。「スコレー」という単語は「ひま」という意味であって、そこから派生した「スクール」は学校という話は有名である。学校とは暇つぶしに行くところなのである。古代ギリシャ人的にいえば、最高に価値あるものだ。現代日本の高校に、昔の絵画に描かれているようなギリシャの哲学者のオッサンどもが、ルンルンと楽しそうな顔をしながらスキップで登校してくる姿を想像して、なんとも複雑な気持ちになった。
あれだけギリシャで学問が発展していったのも、ひとえにスコレーのおかげだったはずだ。やるべきことが無く、純粋にやりたいと思ったことをやるとき、そこに何か新たな発見や進歩がたくさん生まれていった。「もっと知りたい」と心の底から願い、それを考え、没頭する時間がたっぷりと用意されていることを通して発展したのだと思う。つまり最高に自発的であったからこそ、あそこまで深められたのだと。そしてそんな発見や進歩について多くの人々と語らい合うとき、そこに「最高の喜び」みたいなものがあると思っている。ある人が「こうなりたい」とか「これをしたい」といった夢をもっていて、それを人に語るときにいつだって目がキラキラしているのは、したいことを見つけて、それを自分の中だけに保持せず誰かと語らうということを通して、喜びを見出しているからなのだと思う。そういった意味で、古代ギリシャのオッサンと、アイドルになりたくて夢を語る女の子は同類だと思っている。オッサンじゃない!って女の子から反発されそうだけど。
 
 
というわけで、今回のわたしの主張。空白こそ最高に自発性が促される環境であると考える。人間の身体はいつまでも睡眠を取り続けていられない仕組みになっているというところからも分かるように、人間は本質的に、何にもしていないということを続けていることができない生物なのだ。常に何かをしていたり、考えていたりしていないと、暇すぎて仕方なくなってしまう。きっと人間は暇すぎると比喩じゃなく本当に死んでしまうと思う。けれども逆に、やりたくないことをやり続けて、暇が全くないというのも死んでしまう。現代では圧倒的に後者の人で溢れていて、文字通り死にかけているか、ほんとうに死を選ぶ人が続出している。そんな状態では、少なくともその人の真の自発性が発揮されることは出来ないし、そこからくる素晴らしいアイデア、知的生産物が生まれることも無くなってしまう。何しろ、とにかく生活することに手一杯な状況では、やりたいことを考えている暇さえなくなってしまうからだ。心を亡くすと書いて「忙しい」とはよく言ったもので、忙しくなることは、考える心を亡くし、思考する頭を亡くし、その人からオリジナルなものを奪い去っていってしまうという気がしている。それはあまりにもったいないことだと思う。大げさな表現かもしれないけれど、これは人類全体の損失だとも思っている。
このように、さきほども世の中からどんどん時間的な余裕がなくなっているということを話したけれど、これはほんとうに知的な生活をおくる上で、かなり致命的なものになっていると思う。もし家電さえ時短しなければいけないくらいに余裕のない生活なのなら、いつ「自主的な学び」をすればいいのだろうか。暇がなければどうしたってじっくりと考える時間も少なくなる。テストに備えた付け焼き刃の浅い理解か、一夜漬け的な詰め込みとなってしまうだろう。本当に興味があって楽しかったら、そんなに浅い理解では自分自身が納得できないはずだからだ。ほんとうに興味がある内容を学びたいと思ったら、楽しくなっちゃって他のことなんかしている場合ではなくなっちゃうからだ。もしそうなってしまったら、きっともう、はたから見たら勉強をしているというよりも、遊んでいると呼べる状態になると思う。というか資格という概念自体が、自分にとって意味を成さないものになっていくんじゃないかと予想している。
 
以上のようなことを考えていて思った。真の仕事や発見、進歩と呼ばれるものの多くは「遊び」の中に生まれるんじゃないかと。空白を好きなことで埋めた先に、進歩は宿るのだと思う。
 
もはや陳腐なフレーズと化してしまった感があるが、「好きなことで、生きていく」という言葉はいいじゃんと思う。それはどうしてなのか。YouTuberは遊んでいるだけという非難があるけれども、もし彼らが本当に遊んでいるという感覚で、没頭して動画を作っているのであれば、それはもう仕事だと言える。というよりも、長時間の労力を費やしているのにもかかわらず、それが楽しくて仕方がないことなのだったら、それはもう仕事と遊びの境目など曖昧になっているということなのではないか。仕事なんだか遊びなんだか分からないなんてことになってしまったら、それはもう一日中遊んでいるということになってしまい、きっと最高に生き生きしているという感覚を味わえる気がしている(実際に彼らの動画収録や編集の労力はとんでもなく大変だということらしいが)。
もちろんYouTuberだけでなく、遊ぶように仕事をしている人の存在は貴重なものだと思う。やりたくないことで満たされてしまって生まれた「忙しさ」で溢れるこの世界に対して、彼らが反旗を翻すヒントをもたらしてくれることをわたしは願っている。子どもが将来なりたい職業ランキングの上位にYouTuberがランクインしたことがあったが、これを知ったときにわたしは、子どもたちは実によく周囲の大人たちを観察しているなと思った。身の回りにいる大人たちの虚無感を敏感に感じ取っているなと。ツラそうに生きている大人を見て、「ああはなりたくない」というのは素直な感想であるように思う。大人たちが空虚な日々を送っていることは、子どもたちには筒抜け。こうなりたいという身の周りの大人の部類がYouTuberだけというのもいかがなものかと。
 
そうなると逆に、今の世の中ではどれだけの人がある種「生きていない」状態にあるのかということも考えてしまう。「好きなことで、生きていく」にあれだけ多くの賛否両論が注がれるのは、「好きなことで、生きていない」という人が少ないことの何よりの証拠なのではないかと思う。好きなことで生きている人がいるということを素直に応援できなかったり、ともすれば憎悪の言葉を向けたりするのは、自分自身のあり方に不満があるからかもしれない。自分が満たされていたら、相手を蔑もうなんて気持ちは起こらない。そして自分が満たされていたら、そもそもその人が興味関心の意識上に上ってこないか、もしくは上ってきたとしても「いいじゃん。楽しそうじゃん。もっとやっちゃえ」と応援するはずだと思っている。と考えると、そうした憎悪の言葉は実のところ、相手ではなく自分自身に向かって発している感情なのかもしれない。
そんなわけで、好きでもないことをイヤイヤして、社会のために役立つ者にならなければならないと思い込み、自分を自分で鞭打って「頑張り」すぎている人が多いのだと思う。しかし残念なことに、実際にはそのような「頑張って」いる人々によって経済は成り立っている。こうした意味で、資本主義経済とは「奴隷経済」であると皮肉を込めて言い換えるべきなのかもしれない。それが現実だが、ほんとうに忌むべきことだとわたしは思う。ブラック企業で「頑張って」働く人がいるからブラック企業が潰れてなくならない、という話を聞いたことがあるが、それは的を射ているとわたしは思う。
 
さらに悪いことに、なぜか人は幸福よりも不幸を共有したい欲のほうが強かったりするので、(おそらく原始時代の名残で、危機回避のための性質だと思う)どうしても不幸の方に引きずり込んでやりたいと考える人が多い。奴隷は奴隷でない人を憎悪し、自己と同じ奴隷に引きずり込むことに至福を感じる。頑張っている人が頑張っていない人を見ると、怒りや憎しみを覚え、敵視することになる。「俺が若いときはもっと苦労した(んだから同じ苦しみを味わえ)」 は、まさにこの不幸共有欲の現れだ。それは人間の悲しい性だ。残念ながら文明がここまで発展してもなお、幸福はあまり共有されず、より多くの不幸ばかりが共有されている。厄介な世界だ。それには、まだまだ「頑張る」が根強く正当化されすぎている風潮も後押ししているように思えてならない。
努力と忍耐は同義語ではない。忍耐することが頑張ることの唯一の手段ではない。
 
ここまで発展した世の中なのだから、もうちょっと文明の利器をうまく使えば、たくさんの暇が生み出せるはずの世界になっていると思う。煩わしい世間体や常識を捨てて、少しずつでもいいから空白を生み出し、そのリラックスした中で、時間を忘れて自分のやりたいことをやる。そしてその工程や結果を、どんなかたちであれ、たくさんの人々と共有する。これって、小学校の時に公園で遊んでいたときのあの感覚、「友だちと体を動かして遊び、楽しいことをみんなで共有して笑い合う」ととても似ているのではないだろうか。であるならば、決して子どもの遊びは馬鹿にできない。逆にあの感覚をもったまま、そのまま大人になれたひとほど、最高に仕事のできるひとになっていると思う。だからもう、みんな遊んでしまえばいいとさえ思う。遊ぶように仕事をする人のパワーに、「頑張って」仕事をする人のパワーなんかが勝てるわけないのだから。
 
 
アインシュタインはこう言ったとされている。
 私の成功の秘訣がひとつだけあるとすれば、ずっと子供の心のままでいたことです

 

そしてタモリはこう言った。
 

真剣にやれよ!仕事じゃねえんだぞ!