しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】弱さを認めるところから、強さがはじまる

f:id:SE4S0N:20200122201353j:plain

ジグソーパズルのピースを見るたびに、人間っぽさを感じる。誰もが出っ張っているところをもっていて、誰もがへっこんでいるところをもっている。
おそらく世の中というのはそれらによって完成する一枚の大きな絵のようなもので、ふさわしいところにふさわしい人がピタリとハマることで、周りときれいにつなぎ合わさるようになっている。

 

 
でも最近なぜか、ピースは出っ張っているほど良い、あるいは出っ張っていなければならない、という流れがあるような気がしている。絵の中の少しでも多くの面積を自分のものにしたいからであろうか。大きなピースであれば目立つことができるし、人よりも絵の完成に貢献しているという充足感を得られるからであろうか。
けれども、あらゆるピースが出っ張っているピースばかりだったとしたら、それに対応するヘコみが無いので、パズルの絵は永遠に完成しないはずである。あるいは、出っ張ったところがぶつかり合い重なりあって、ピース同士が歪な衝突を起こしているかもしれない。だとしたら、そのジグソーパズルは至る所でガタガタとなっていて、一体何が描いてある絵なのか、とても見れたものではなくなっていることだろう。
 
なぜそこまで出っ張ることを求めるようになっているのか。それは、生活のあらゆる場面が競争に巻き込まれ、勝った負けたの壮絶な争いを強いられているからであるような気がしている。能力は高ければ高いほど良いという言説に巻き込まれ、学歴社会や出世競争が形成される。お金は持っていれば持っているほど良いという言説に巻き込まれ、年収の多寡で個人の人格そのものが値踏みされる。知識は持っていれば持っているほど良いという言説に巻き込まれ、クイズ番組が流行し、暗記一辺倒のテストが持て囃される。人気はあればあるほど良いという言説に巻き込まれ、人々はSNSで「いいね」をどれだけ獲得するかに腐心する。
 
確かにそれらは、持っていないよりはいいのかもしれないが、何かにつけて人と比べてあれやこれだと一喜一憂して他者に自慢したり、あるいは人生の勝ち組だ負け組だと騒ぎたてるような状況は、どうにも競争をやりすぎな世界であるような気がする。競争するのはいいが、比較してああだこうだするのは時間の無駄だ。わたしはそれらを非常に息苦しいと思ってしまう。そんなに戦い続けて不必要なまでのストレスが溜まらないのかと聞いてみたくなってしまう。
 
しかし私たちは、そうしたあらゆる部門別の強さコンテストに否応なしに巻き込まれていて、「コンテストでいい順位を取れ。そうすれば生きやすくなるぞ」と常々教えられてきている。実際に、人よりも上に立つことによる優越感や充足感を得ることには、逃れがたい誘惑がある。なぜなら、自分が相手よりも勝っていることを確認するというマウンティングの成功は、自分の言うことを相手に言い聞かせることを容易にもするので、それだけ「自分が正しい」というフィールドを作りやすくなるからだ。ただし、強いから正しいというフィールドにおいては、マウンティングされた方は恨みや羨望という形の鬱憤が溜まっていくので、「いつそのフィールドをひっくり返してやろうか」という謀反を企てる人が乱立し、どこかでほころびを見せないかと、虎視眈々と弱みを狙うようになる。そうした数々の視線によって、その場は緊張を強いられることになり、報復の連鎖が生み出されいく。「切磋琢磨」という見てくれ上キレイな側面の背後には、本来この言葉が持つ純粋さの裏に、このような黒くて大きなパワーが目に余るほどに焼け付いてしまっているようにわたしには感じる。お互いの能力を認め合い、高め合うという崇高さみたいなものは空疎化し、ただただ相手を打ちのめして勝つことこそが目的になってしまっていることは多い。
 
 
他にも、そうしたフィールドに参戦しようとしない人や、張り合おうとしない人に対しては、「どうして諦めるのか」とか「それではやっていけないぞ」などいう言葉とともに、強さコンテストへの強制的な参加を促そうとする。それらはしばしば、コンテストの上位者や自分のコンテスト順位に不満を抱いている者から告げられる言葉であり、戦い合おうとしないのが心配だからという理由付けによって、世間からもその行為を肯定される。「心配」と書かれた赤紙による強制的な徴兵である。思うに、「心配」というのは自身だけでなく、人に「心配」を与えることもひっくるめてやっと「心配」と呼ぶのではないか。だから不安とは、ある種の呪いに等しいものだと私は思っている。
 
私たちは好むと好まざるとに関わらず、比較の百年戦争への参戦を余儀なくされているのである。
 
 
人よりも強く在りたい。人よりも優れていたい。だけれども、直接に自分の強さを見せびらかすのはみっともないように見られるし、周囲からも良い顔で見られない。それに、実は周囲に自分よりも強い者が居たとしたら、自慢げに振りかざした自分の強さを否定された気がして、プライドが傷つくことになる。このようなことを考えながら、人々はいつも誰かと競い続けている。その競争相手は時として、特定の誰かを指すものではなく、あるいは実際に存在しているかも分からない。
強さを身につけたいという動機の裡には、必ずといっていいほど「人よりも」という接頭語が省略されている。考えてみればそれは当然のことで、強さや弱さという言葉には、必ず「比較」という前提を伴っているからだ。どちらが強いか、どちらが優れているか、比較して誰かと競い合いながらも、ニコニコしたまま常に誰かと火花を散らせているのである。比較によって両者の「相違点」を見つけ出しているだけなら、まだいい。だが、そこにさ弱さという尺度が入り込んだ途端、両者の間に優劣という上下関係が付帯的に発生し、いがみ合いの磁場が構成されることになる。それはストレスとして個人の裡に澱のように溜まっていく。
比較とは執着の副産物であるとわたしは思っている。これは強さへの執着にも当てはまると思っている。つまり強さに執着すると、その副産物として優劣比較を生み出す。もっと言ってしまえば、強さという概念自体が比較の属性を備えている。そしてそれは少なからずストレスを発生させる。だから、強さへの希求は、ストレスを生み出すというある種の弱さを持っているとわたしは思っている。
 
また、このような闘争心や敵意の源泉は、その多くの場合、憎悪と偏見から作り出される。そしてそれらは、いつでも「自分のほうが弱いと思い込んでいる側」が持つものである。だから弱い犬ほど吠えるのである。しかし犬だけではなく、人間もまたそうやって、どうしても比べ合って自分の強さを誇示せずにはいられないという性を持った生き物なのだ。
結局のところ、闘争心に対しては闘争心で返されるのだとわたしは思う。人間は何かしらの施しを受けたときに、お返しをしなければならない気持ちを抱くという「返報性の原理」というものが心理学であるが、この原理は何かをプレゼントするということにおいてだけでなく、戦いや勝ち負けにおいても同じく当てはまるように思われる。つまり、誰かに敵意のまなざしで接すれば、その相手も敵意の視線で返してくることになるのだ。思考や価値観は、いつも態度や言葉として現れるし、人はそうした細かい機微を機敏に察知することができる。だから、相手の持っている闘争心や敵意も、その場の雰囲気や佇まいから察知するのだと思う。
人間には無意識的に同じ感情を共有する能力があって、同じものを呼び寄せる力をもっているのだと思う。たとえば楽しい雰囲気をもつ人には、楽しい人が集い、不幸を背負う人にはさらなる不幸がやってくる。まったく根拠のないスピリチュアルな話になってしまうかもしれないが、思考形態や価値観、感情などといった諸々の機微は、その空間に言うなれば「雰囲気」という形で醸成される。そしてそこには、周囲に存在する似たものが同調して集まってくる。似たものや同じもの同士は不思議と集まってくるような気がしている。とある実験によれば、親しい間柄となっている友人同士の遺伝子の配列は、不思議と似通るのだという。
 
似たものは集まる。これは自然界の普遍的な原理のような何かのような気がしている。「類は友を呼ぶ」ということわざがあるが、この考え方でいくと、実はかなり深淵を覗き込んだ言葉なのではないかとわたしは考えてしまう。
似たものは集まる。それは人に限った話ではなく、感情や出来事、物質といったものにまで共通する、ある種の万有引力的な力学のことを指しているのではないかと感じている。
 
 
話が逸れた。
勝負の果てに生き残るのは、いつだって力の強い方である。だから力の強い者に合わせたルールが作られるようになる。至る所で勝負がなされ続けているこの世界は、ひとりで出来なければならないこと、出来て一人前、出来て当たり前のハードルがどんどんと高まる世界へとなっていっているような気がしている。言い換えるならば、ますます弱さが許されない世界になっていっているような気がしている。強い者だけが生き残るというのは、自然淘汰の法則からいって、とても理にかなっていることだ。しかし、どんなに強い者にも弱いところがあるということを忘れてはいけない。強さをもつ側面だけを振りかざして、「自分は強い」と吹聴するのは驕りである。何かの理由によって、強いとされていた者が、高まり続けるハードルを超えられなかったとき、「それはあなたが弱いせいだ」と無慈悲にも切り捨てられることになる。そうなったとき、驕っていた者が後になって助けを乞うても、誰も助けてはくれない。そうした強さからの転落による切り捨ては誰にでも起こりうることである。
 
強さを相手に求めるとき、自分にも同じことを求められていることを忘れてはいけない。
 
強さだけを認めるような、一人前のハードルが高まる社会になるほど、弱さに対しての優しさがどんどん減っていく。そのような弱さを許さない社会では、当然ながら誰も弱さを見せようとはしないし、弱い者に対する救いの手を差し伸べる者も少ない。自己責任の名のもとに、弱さを持つこと自体がまるで罪であるかのように見なされるからだ。そうした状況が続けば必然的に、誰もが己の強さだけを得ようと利己的になり続けるので、そこに他者に手を差し伸べるなどというような余裕や助け舟は生まれることはない。
 
しかし、一人でなんでも出来る、というのは大いなる驕りである。衣食住とってみても、そのすべてを自分だけで賄うことのできる人はいない。屁理屈かもしれないが、私たちは生きていくことの大部分をアウトソーシングしてしまっているほど、自分では何も出来ない弱い存在だ。一人で鉄を掘り起こしてきてコップを作ることなど出来ない。小麦を栽培しないから一人でパンも作れない。そうやって分業することで、ひとりでは出来ないことを他人に任せてきた。だからsmithさんがいて、millerさんがいる。
 
 
いたずらに勝負ばかりして強い者だけが生き残るようにするよりも、弱さを認めて、できないことを補い合う方が理にかなっているし、一人ひとりもラクすることができる。
例えば弱点の克服というと、素晴らしいことだと言われる。その行為自体は全く否定しないが、弱点を克服することに労力を費やすぐらいなら、美点を磨くことに同じだけの労力を費やしたほうが、よっぽどラクで楽しく、誰かのためにもなるとわたしは思う。その弱点は、それが得意な他の人がやってくれる。だから弱点は弱点で、直したいと思ったら直すでいいのだと思う。そうやって自分でなんでもかんでもやろうとしないということも、弱さを認めることの一つだと思う。
 
どれだけ努力しても、たどり着けないところがあるということを認めること。他人の助けがなければ生きられないということを認めること。他の人には簡単に出来ることなのに、自分にとっては難しすぎて出来ないことがあるということを認めること。そして何よりも、自分ひとりでは何も出来ないという、その圧倒的な無力感と真っ向から対峙して受け入れること。
それが弱さを認めるということだとわたしは思う。それは誰しも認めたくないことであって、そうした弱さは、誰もが多少なりとも隠していたり、あるいは決して目を向けないように逸らしている部分だと思う。人はしばしば、他人に自分の弱さを見せるのはもちろんのこと、自分が自身の弱さに向き合うことさえ避けようとする。このような弱さからの逃避がありふれているのは、強さをもつ自分を肯定し、強い自分を維持するために必要だからだ。強さをもつ自分であって初めて、他者や社会から必要とされ存在を認められる一員だと思っているからだ。だから大人になればなるほど、そうした弱さを見せないようにしようと振る舞うし、社会の方からも弱さを見せることは「みっともないこと」として慎むように要請される。
思うに、大人になるとは、強い自分を演じて偽るようになることだ。だから子どもたちに「大人ってウソばっかりじゃないか」と看破されるのだ。
 
だから、潔く弱さを認めるということは本当に難しいことなのだとわたしは思う。なぜなら、多くの人々にとって自分の弱さをひけらかすということは、自分の存在価値が低いということを他人に知らしめることだという認識があるからだ。それをもっとも端的に言えば、プライドがあるからだと表現できる。
一度手に入れて、他人から認められた強さを手放すこと。実は周りが思うほど自分は強くはないということを知らしめること。それは難しいことだ。がっかりされるのではないか。不必要だと思われるのではないか。今よりも不利な立場に追いやられるのではないか。他人に付け込まれるのではないか。このような様々な心配が渦巻いてしまうからだ。そしてこういったことは誰もが感じていることでもある。誰もが、自分は強くないということを薄々自覚しながらも、誰もが弱さを見せまいと押し隠そうとしている。そして強き者たちの中に弱さを見出したとき、まるで鬼の首でもとったかのようにボコボコに叩く。それはまるで、たたいてかぶってジャンケンポンで、ひたすらヘルメットをかぶり続けているような状況である。だからストレスが溜まるし、生きづらくもなる。行動範囲も狭まり、窮屈な思いをすることになる。人生数十年にも及んで続く、我慢大会をしているということである。ヤマアラシのジレンマもとい、アルマジロのジレンマとでも言おうか。
 
 
インドにある考え方に、「人は生きているだけでどうしたって周りに迷惑をかけているものなのだから、相手の迷惑も受け入れる心をもっていなさい」というものがあるらしい。しばしば「人に迷惑をかけてはいけません」と教育される日本とは真逆の発想で、なんとも新鮮な視点だとわたしは思った。思考停止して、ひたすらに迷惑をいけないものだと切り捨てるのではない、ある種の寛容さを持っている言葉だ。わたしは初めてこの言葉を聞いたとき、いい考え方だなと思った。しかしこのインドの道徳は、手放しに賞賛するには結構危ういものがある。というのも、ただの自分勝手を肯定するための詭弁を弄する時に使われかねないからだ。
つまり例えば、「迷惑をかけていいのだったら、盗みを働いてやろう。それも一つの迷惑として受け入れてくれよな。」などというときの自己肯定のための理由付けとして、曲解されてしまうのだ。だが、ここでいう迷惑とはそういうことではない。この価値観によって伝えたいことはおそらく、「自分の弱みを認めて諦める」ということだ。この諦めるとは、仏教での元々の意味の「明らかにする」ということである。つまり、自分がいかに出来ないかを相手に明らかにするということだ。
 
それは言ってみれば、一種の自己開示である。
 
だからわたしは、インドのこの道徳がほんとうに伝えたいのは「自分の弱さを受け入れ、相手の弱さを受け入れる度量を持ちましょう」ということなのではないかと考える。もっと言ってしまえばこうかもしれない。人間関係においては、「いかに自分がダメな人間かを出来るだけ早く相手に伝えること」なのだと。強さだけを見せていると、相手も強さしか見せようとしない。逆に弱さをさらけ出してしまえば、相手も弱さをさらけ出してくれる。そうなれば、人と人の間で生まれがちな緊張も弛緩させることができて、窮屈さのない過ごしやすい空間が生まれると思う。だから早々に白旗を揚げてしまえばいいのではないだろうか。そうやって弱さを見せたことによって、相手が幻滅して去っていくのならば、その相手とはそれまでの関係でいいとわたしは思う。また、弱さを見せたことによって、相手が鬼の首を取ったようにそれを非難してくるのならば、その相手ともそれまでだ。そういった人は、自分の弱さから目を背け続けているか、あるいは自分の弱さに無自覚な人である。己の強さだけを堅持し、披露していることでしか自分を保つことができない人だ。失礼な言い方をすれば、余裕のない人なのだとわたしは思ってしまう。
 
逆に「仕方がない人だなあ」と慕ってくれたり、「わたしも出来ないことばかりだから、何かあったら手助けしてほしいな」とお互いを補完し合えたりするような関係を築ける人であれば、ストレスのない関係性を築くことができると思う。ただしそのためには、いたずらに卑屈になったり、ひどく傲慢になれということではない。自分が相手に出来ることは、自信をもってしてあげればいいし、自分に出来ないことは、相手に素直に出来ないと伝えて助けを乞うたり、あるいは教えてもらうということである。
 
傲慢にもならず、卑屈にもならない。
実のところ、これはなかなか難しいことだったりする。
 
弱みを見せて、迷惑をかけること。その迷惑というのは、相手を不幸にしてやろうという意志を持って、困らせるためにかける迷惑ではない。ポジティブに言えば、相手が能力を発揮する機会をあげるための迷惑とでも表現できる。ポジティブな迷惑とでも言おうか。人間誰しも、自分の得意なことをして力を発揮しているときが輝くもので、それも誰かのためとなればなおさらだ。そうやって得意を披露するということは、最高に自発性を伴った行動であるので、自分が迷惑をかけられているという気持ちを抱くことはない。むしろ清々とした気持ちを抱くほどだ。つまり、お互いが弱さをみせるということは、「かけられたい迷惑をかけ合う」関係を構築できるようになることだとわたしは思っている。それはまるで、プールに入ったときに、水しぶきを掛け合うようなものだ。口先では「ちょっともう」と言ってはいるけれど、水を浴びると涼しく心地よくなるので実際には嫌なわけではない。
 
強さを見せ合って力を示し合う関係ではなく、弱さを見せ合って相手の力を引き出し合う関係を築くこと。まったく机上の理想論かも知れないが、このような「引き出し合いによる助け合い」の世界は、少なくとも今よりも優しい世界になる気がしている。
 
 
それでもなお、強さを身につけることは、一見、絶対的に正しいことのように見える。けれども、そこには主に3つの大きな弱みもあるとわたしは思っている。
 
まず第一に、強い人には他人が寄ってこなかったりする。
なぜなら、他者が、そのような何でも完璧にこなし、解決できるような人を見るとき、「わたしがあの人の周りにいる必要性がないな」という感想をもつからだ。強い人は、他者から支えてもらう必要がないように思われるので、近寄りがたく、理解されにくい。また実際に、他の人には理解できない感覚を備えていたりもする。それを人間味が薄いとも表現されることがある。様々な物語の中で、短所のある登場人物が支持され、多くの人々が惹かれることが多いのは、弱さの中に人間味を見出し、自分はほんとうは弱いと自覚している読者が親近感をもつからだ。たとえそうした強い人が、実は助けを求めていたとしても、「いやいや、そんなこと言ってもあなたなら出来るんでしょう?」などと思われ、ほんとうに助けてほしいのに助けてもらえないということも多々ある。
強さを持つ人が秘める弱さを、世間は理解をしてくれない。
だからヒーローは孤独だ。
 
 
そして第二に、その強さを自分のために利用してやろうと、ただ私益のために近づいてくる人がいるだろう。
なまじ強さを備えているだけに、その強さを持っていない他者が、その羨望から、何かうまい理由をつけてその強さを濫用しようと試みる。強さを提供する側が、提供される側の理念や価値観と沿っているのならまだいい。しかし、誰かの一方的な搾取のために、その強さを利用されることになってしまったら、それは大変不幸なことである。誰かに強さを利用されるにせよ、自分で強さを発揮するにせよ、そうした強さの濫用は、意図せずとも誰かを破滅に導く結果を招いてしまう恐れさえあるからだ。その破滅によって生まれる恨みの矛先は、強さを発揮した本人へと向けられることになる。実際に強者を使役し濫用した人には向けられることは少ない。このように、強者の力の発揮は、いとも簡単にルサンチマンを生み出す。だから、強さを持ちそれを発揮するということには、責任が伴っているのだ。
強さを持つ者は、己の強さの影響力を知らなければならない。
だからヒーローは難しい。
 
With great power comes great responsibility.
大いなる力には、大いなる責任が伴う。
(映画『スパイダーマン』より ベンおじさんのセリフ)

  

そして最後に、何よりも強さが持っている最も大きな弱みは、トートロジーだが「強くあることそのもの」にあるとわたしは思う。
先程も述べたが、強さとは比較によって生まれるものである。である以上、「他よりも強い」ということが必須となる。ならば強い者というのは、強くあり続けなければならない。でなければ、「強い」と評され続けられないからだ。つまり強さとは、「強くあり続けること」が必要とされるのだ。
これはどんなタイプの強さであれ、必ずあてはまるものだとわたしは考える。例えばお金持ちは、他人よりもお金を持ち続けることによってお金持ちという強さを備える。美人は、他人よりも顔が美しくあり続けることによって美人という強さを備える。しかし、いくらお金持ちでも、お金を使い果たしてしまったら、お金持ちという強さは失い、いくら美人でも、年齢とともに老化して醜い相貌になってしまったら、美人という強さは失う。
もっと即物的な例を挙げるとするならば車が分かりやすいだろうか。車は、手に入れることよりも維持するほうが、車検やらガソリンやら駐車場代やらとお金も手間もかかる。車は移動手段としてこの上なく優れていて、社会的な価値も優れているが、大枚をはたいて買ったそのときよりも、買った後に使い続けることのほうが大変だ。
このように例を挙げると、それは当然のことのように思われる。しかし、ある強さを身につけるということは、その強さを維持し続けるということも同時に課せられるということだ。そして大抵の場合、強さを身につけるよりも強さを維持するほうが困難だ。にもかかわらず、そうした当たり前のことを私たちはしばしば忘れてしまう。そして更に悪いことには、手に入れた強さを維持するために己の強さを高めていくのではなく、むしろ他人の強さを貶めることに奔走する人もいる。だが、それは偽物の強さだ。なぜならこの場合、強さの発揮によって何かを果たすことを目的としているのではなく、強さそのものを維持することだけに注力しているからだ。
強さは、強さを維持してこそ強さである。
だからヒーローは負けられない。
 
 
こう考えると、強さを身につけることが、必ずしもその人に幸せを導くことになるとはいえないのではないかと思う。「もっと強くありたい。もっと認められたい。もっとお金を手に入れたい。もっと多くの人々から賞賛されたい。そうすればわたしはもっと幸せになれる」と絶対的な真理かのように思い込んでいる人は結構多いのではないかとわたしは勝手に感じている。しかしそれは本当にそうなのだろうかということを問いてみたい。世界の富豪ランキングが、そっくりそのまま世界の幸せな人ランキングとなるのだろうか。たくさんの注目を集める芸能人やアスリートがみな幸せなのだろうか。わたしにはそうは思えない。もちろん、「だから弱くなれ」と言うつもりはない。けれども、強さを身につけることで、結果として必ず他者よりも幸せになれると妄信的になることは、むしろ誤りであり、短絡的な考え方だとわたしは思う。
 
 
一人の人間が出来ることは、たかが知れている。一人の人間が出来る範囲も、たかが知れている。だから「なんでもできる」というオールマイティな強さを身につけるよりも「できることはできる」という強さであればいいし、「誰にでもしてあげる」という強さではなく、「欲している人にしてあげられる」という程度でいいのだとわたしは思う。全てを抱え込む必要はないし、全てに施しを与える必要もない。私たちは世界を救う勇者にはなれないし、なる必要もないのだ。
 
 
なんでも出来るようになるのは確かに素晴らしいことだが、現実としてそんなことは不可能だし、たとえなんでも出来るようになったからといって、世界が明るく見えるようになるわけでもない。自分の弱さを決して認めず、全て自分で解決しようと抱え込むことは、実はきっと賢い選択だとはいえないのだと思う。それよりも私たちにとって重要なのは、自分に出来ることと出来ないことを把握することだ。パズルのピースをいたずらに出っ張らせようとするのではなく、まずは出っ張っているところとへっこんでいるところを的確に知るところからだ。そうして初めて、どこにハマるかが見えてくる。しかもそれは、無理やり形を変えるよりもずっとラクだ。
 
 
では、私たちはどうなればいいのだろうか。かの有名な任天堂の岩田社長がこんなことを言っていた。
自分ではそんなに頑張っているつもりはないのに、周りからみたらスゴイと思われることを伸ばしていけばいい、それがあなたの得意なことだ」と。
 
それがその人にとっての「できることはできる」ということだ。しかし、そのような周りよりもできると思っていることさえ、世界を見渡せばもっとできる人はいる。上には上がいるという謙虚さをもつこと自体は、傲慢さを防ぐことができるために否定はしない。だが謙虚さを卑屈な方向に捉え、優れた人と比較してしまうと、自分の存在価値を自分で疑うことになってしまう。そのような絶望感に苛まれないために、「欲している人にしてあげられる」という考えを持っていればいいとわたしは思う。世界は救わなくていい。これは机上の理想論だろうか。
 
わたしはわたしで、わたしがやれることをやる。その人にはその人の役割がある。それで十分だし、それこそが必要なことなのだと思う。
強さ比べによって相手を蔑み、あるいは溜飲を下げながら高みを目指すのは、昔から何一つ変わらない不毛な比較の百年戦争に始終してしまっているようにわたしは思えてならない。なんというか、それはシンプルに面白くない。
そうではなく目指すべきは、強さを行使する方角の追求をすることだ。
きっと力は強さではなく使い方のほうが重要なはずだ。
 
 
自分の強さだけに向き合っていると、他者にも強さばかりを求めるようになる。
自分の弱さを認めることができると、他者の弱さも認めることができる。
自分に出来ないことがある、ということを認めることが出来てはじめて、他の人が出来ないということにも寛容になれる。
そうした寛容さを身につけることは、他者との協同という一つの貴重な強さを身につけることにはならないだろうか。
 
人は一人では何もできない。というよりも、おそらく人は一人で生きるようには設計されていないのだと思う。ということは裏を返せば、人は社会性をもつ生き物だということの証明でもある。自分の弱さを認めるということは、そのようなことを自覚することだとわたしは思っている。
かつては、いや今でもそうかもしれないが、人間は自然界ではほんとうに弱いちっぽけな存在だった。他の野生動物たちの恰好の獲物となるような存在だった。一人で生きていくにはあまりにも無力な存在だった。しかし、そうした弱さを認めるところから、人間の強さがはじまったのだと思う。その強さは、他者と協力し合うことで生きていけるという強さである。もっと言ってしまえば、自分の弱さを認めるということそれ自体が、もうすでに一つの強さなのだとわたしは思う。