しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】人間総天邪鬼説

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カラっと晴れた夏の一色海岸
 
つくづく人間って素直じゃないんだなあと思うことは日ごろからよくあって、「これをしろ」とか「するべきだ」って言われたことって、なんか不思議とやりたくなくなるし、気が重くなるというのはよくあることだと思う。規則があるから破る人がいて、命令があるから反逆が生まれる。夏休みの宿題をほったらかしにする現象も「宿題をやれ」と言われて強制的にやらされるものなのだから、やりたくないというのは当然の反応なのである。

 

 
もし仮に「夏休みの宿題を配りますが、絶対にやってはいけません。それどころか最後までなんかやった人には……」っていう前口上とともに宿題を渡されたら、きっと全国の小学生の8月31日は、もっと前途洋々なものになるだろうし、市民プールももっと混むはずである。エンドレスエイトなんてことにもならないと思っている。こんな感じで「これは絶対にするな」とか「したら後悔する」なんてことを言われると、ちょっと試しにやってみたくなっちゃう。これはもう人間の性なんじゃないかと思っている。
 
実際に、心理学の用語にもカリギュラ効果というものがある。その意味は以上で挙げた内容のままだ。人間というものは「やってはいけない」といわれることほどやりたくなるものだという心理現象のことだ。上島竜兵である。「押すなよ!絶対に押すなよ!」である。ものすごく押してほしいのである。大晦日のテレビ番組「ガキ使」のタイトルに「絶対に笑ってはいけない」がついていなかったならば、おそらくあんなに笑える番組になっていない……はずである。
 
さて、「やってはいけない」で思い出すのは猫の恩返し……ではなくて、鶴の恩返しである。
鶴の恩返しの鶴はほんとうに罪なヤツだ。なぜなら、このように思ってしまうからだ。あの物語の鶴って実は、いつか見られることを期待していたんじゃないかと。「あのジジイ、絶対に覗くぞ」と。
わざわざ自身の羽根を織り込むくらいなのだから、鶴からしてみれば、「覗くな!といっておけば、早々に覗き込むはずだろう」という算段があったのではないか、などと邪推してしまう。あまりにも長いこと見られなかったとしたら、羽根を使い果たしてハゲてしまう。老夫婦は真面目だから、三日目まで辛抱してからようやく機織りしているところを覗いたけれど、鶴からしてみれば「早く覗けよ!私もうこんなに羽根をむしってしまったじゃないか!」などとむしろ早く覗かなかったことに怒っているんじゃないかという気がしている。この鶴の苗字はきっと「うえしま」に違いない。
カリギュラ効果的に鶴の恩返しを考察してみたが、結局この物語は鶴の自業自得だったんだかそうじゃないのか、よく分からなくなってきた。
 
「イヤよイヤよも好きのうち」なんて言葉もあるけれど、これも結局、カリギュラ効果や鶴の恩返しと似たようなのことを示した内容だと思っている。実際ほんとうに「嫌い」だと思っていたとしても、「イヤだ」なんて思えるということは、それだけその対象や人に関心があるということのなによりの証拠になるわけで、それはもはや「好き」っていうことと同等なんじゃないかと思う。ここでいう同等とは、同じ感情を抱いているという意味ではなく、「好き」と「嫌い」というのが「同等の意識レベルを持つものだ」ということである。程度の度合いが極大までいくと、むしろ反対の現象と似通る的な法則と同じというヤツで、究極のところまで行くと混沌と秩序の見分けがつかないのと同じである。これについては、例えばコーヒーの話が分かりやすい。ブラックコーヒーにミルクを足したとき、出来上がったミルクコーヒーを「ブラックコーヒー成分とミルク成分がグチャグチャに混ざりあったカオス」と捉えるか「ブラックコーヒー成分とミルク成分が均一な感じでキレイに混ざりあったコスモス」と捉えるか、それは観測する人に委ねられているのだ。どうやらこの世界は「cosmos」という語に「宇宙」という意味を付与しているようなので、「世界は秩序である」という捉え方をしているらしい。しかし、「世界はカオス(=混沌)である」としても構わない。「chaos=宇宙」でも、イメージとしても一切違和感はないと思っているし、呼び名が正反対になったところで、世界は何も変わらない。
時計の針は、時計回りでも6時に到達するし、反時計回りでも6時を指せる。反対に進んでいるように見えて、到達する地点は同じ。要はそこに至るまでのルートが違うだけだ。それはたとえば社会の右傾化と左傾化においても同じ。右極であるヒトラーと左極のスターリンが最終的に行ったのは、どちらも「独裁」であり「迫害」である。最終的に行き着く場所は同じなのだ。
 
 
改めて確認しておくが、では好きの反対は何かというと無関心である。意識上にのぼってきて仕方がないことが「好き」であるならば、反対は意識に全くのぼってこないことを指すのだから「無意識」つまりは「無関心」となる。
……この内容自体が、世間からしたら相当に天邪鬼なものだということを折に感じる。
 
だいぶ脱線してしまった感があるので、話をもとに戻そう。要は、人間はいっつも言われたことの逆をやりたくなる性質がある。だから、わたしはここに「人間総天邪鬼説」を提唱したいと思う。
 
素直だとか天邪鬼だとか考えていたら、どうしても出てきてしまうのが「吉田先生」である。そう、徒然草である。
兼好法師はこのように言う。
 
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されどもおのずから、正直な人、などかなからん
人間の心素直ではないので、ウソ偽りがないというわけではない。しかし、はじめから正直な人なんて、そんな人いったいいるのだろうか

 

自分と似たようなことをすでに考えている人がいた。これはほんとうにその通りだと思っている。やっぱり人間ども、偽りばかりですぜ。先生、わたし聞きたいんですけれど、逆に「心すなほ」で初めから正直な人なんて、ほんとうにいるんでしょうかね?

 
いる。
なんでもホイホイ言われたことを、額面のまま受け取って守り続けるような、およそ天邪鬼からかけ離れた「心すなほ」な人は実際いる。そういう人を見てわたしは「まあ立派だなあ」とは思うけれど、同時に「ロボットみたいだなあ」とも思ってしまう。言われた内容や守るべき規則が、たとえどんなに理不尽であったり、苦痛を感じさせるようなものであったりしても、頑なにそれを遂行しようと痛々しい努力を続けているところを見るにつけ、「それ、辛くない?嫌なことはイヤっていいなよ。あなたはコンピュータじゃないんだからさ。一人の意志をもった人間なんだからさ。」と伝えたくなってしまう。
早合点かもしれないが、ここでわたしは気がついてしまった。イヤなはずなのに、頑なに続けているということはつまり、彼も実は天邪鬼なのでは?ということに。
こうなると、吉田先生が言う通り「心すなほ」な人は、残念ながらやっぱり存在していないことになってしまう。
 
だとすると、ほらね。やっぱり人間総天邪鬼説は間違ってないのではないか。このことをちょっと今から吉田先生に伝えてきた方がいいだろうか。
全くこの話題と関係がないが、吉田先生にもう一つ伝えたいのは「怪しうこそ物狂ほしけれ」ってそれな!ということ。メッチャわかるその感覚。私にとって何かを書くというのは、ある種の「狂い」であって、得体のしれない、自分の裡から溢れ出す「過集中」を利用している。この内容も同じく「怪し」の力によって書かされているものだと思っている。
 
 
閑話休題。さて、ここからは逆の話。では、「やってはいけない」ではなく、「好きにしてくれ」と言われたら人間はどういう態度をとるか?ということについて。
 
モンテッソーリ教育という教育の方法があって、その内容を簡単にまとめると、「子どもの自発的な好奇心に委ねることで、自発的な学びの芽を伸ばし、好きが得意なことになるよう全力でそれを支援する」というような教育方法である。「これをやりなさい」と言われてやらされるのではなく、自分でやりたいと思ったから、やる。で、とっても楽しい。楽しいからずっとやりたくなっちゃう。ずっとやってるから得意になる。そのための環境を支えるといった教育方法である。将棋の藤井聡太さんがこのような教育方法を受けたとされている。
この教育を初めて知ったとき、「なんだかすごいなあ」とびっくりしたものだったが、改めて考えてみると、好きだからやるし、得意にもなるっていうのを支援する教育の形って、むしろそれ当たり前のことなんじゃないかと感じている。分別がまだついていない小さな子どもが、親の期待の押し付けという形でお稽古事をやらされているのはよく聞く話だけれど、その中でほんとうに楽しいと思って習っている子どもってどれだけいるのだろうか。早熟な子であればあるほど、大人の「こうしてほしい」という意向を敏感に察して、仕方なく付き合って習い事をやっているなんていう子もいたりする。親や周りの大人が喜ぶから自分の意志に反してでも我慢してやらなくてはならない。これではその習い事を憎むようになってしまうのではないか。 
 
私が知る範囲だけでも、かなり多くの人たちが子供時代に強制された「ピアノのお稽古」によって、すっかりピアノ嫌い、クラシック音楽嫌いになっている。
(中略)
このような「お稽古」における虐待は、多分その教師も幼い頃に同じようにして「お稽古」を受けた経験があるからなのだろう。それゆえ教師自身は、無意識的にはピアノや音楽を憎んでいるにもかかわらず、ピアノを自分の生業にせざるを得ないという大変な自己矛盾を抱えていて、これが指導の場面で子供が思い通りにならない場合につい虐待めいた行為に及んでしまう原因なのであろう。
 
泉谷閑示 『反教育論 猿の思考から超猿の思考へ』

  

 

だが、先人たちが見つけてきた、過去のあらゆる発見や功績というものが、イヤイヤやらされ続けた末に達したものであった試しなんてあっただろうか。時間を忘れて熱中してしまうような物事であればこそ、困難な問題や難しい局面にぶち当たったとき「どうやってこれをうまくやろうか」なんて躍起になるものである。そうやって夢中になっている人ほど、そこに「必死に努力した」なんて苦労の感情を覚えることは多くないし、ましてや「こんなにツライ思いをして乗り越えたんだぞ」などといった鼻にかけた自慢を他人に滔々と語ったりはしない。自己の内面的充足に忠実であればあるほど、他者伺いの自意識は薄くなる。承認欲求はあってしかるべきものだとわたしは思うが、それがある種「飢え」みたいなレベルに達するほどになっている人が度々いるのは、それまで誰かに認められた経験が少ないからというよりは、自己の内面的な欲求に不誠実だったからであるような気がしている。要は、自分自身に認めてもらったことがないから、自分の外側に代替を求めているのだとわたしは思う。
 
だから、一番身近にいる他者というのは、案外自分自身なのかもしれないと、このことを考えるたびに思う。
 
 
飢えといえば「空腹は最高のソース」なんてよく言ったものだが、それと似たテイストで「自発は最高の発明家」というのもあるような気がしている。「Necessity is the mother of invention=必要は発明の母」なんて言うけれど、発明の母はもうひとりいると思っていて、「Self-motivation is the mother of invention=自発性は発明の母」もあると思っている。
 
 
また話が変な方向に飛んでいった。
あまり「こうしろ」と大人が縛るより、子どもには自由にやらせてみれば、という話題についてだが、
「いや、様々なことを幅広く学んでこそ教育だろう」なんて意見があるかもしれない。未来の可能性をつぶさないために、学生のうちに広く様々なことを学ぶべきだ、という主張である。それはその通りである。子どもたちに様々なことを知らせてあげることは、とても重要なことであるように思う。でもそれは単に「きっかけ」であったり「足がかりとなるもの」にとどめておくのがいいのかもしれない。もちろん、生活に必要な常識的な教養は知っておくべきかもしれないが、それもそこそこにして、興味を持ちそうな学問は、多少幼いときからでもガンガン教えて、尖った個性を持った子どもにしてしまえばいいのではないかとわたしは思う。たとえば「光は、波であり粒でもある」なんて物理学の釣り針を垂らしておいて、それに興味を惹かれてひっかかる子どもがいたら、全力でその面白さを教えてあげることで、物理学という名の船上に引っ張りあげてきてあげるのが本人にとっても物理学界にとっても相互に幸せなことなんじゃないかと思う。ここで重要なのは、「何歳という段階になったらこの釣り針を垂らす」といったような学年別カリキュラム的な釣り針ではなく、「何歳でもウェルカムかつ、多種類の釣り針を同時に大量に垂らしておく」ことだと思う。多ければ多いほど、その子どもの興味に合った分野を見つけることができるだろうし、その子が「やっぱり違うな」と思ったらいつでも別の分野にスイッチできるという利点もある。
 
 
というわけで、結論。
 「やれ」と言われるとやりたくなくなる。
「やるな」と言われるとやりたくなる。 
人間は誰しもがそんな性質を持っているようにわたしは思う。
 
「やれ」とか「やるな」といった他人から与えられる燃料によって動くから簡単に燃料切れを起こす。絶えず石炭をスコップで投げ入れながら動く蒸気機関車のような状態では、それはもう他人の手のひらで転がされている状態に近い。誰かに手綱を握っていてもらったほうがラクだ、という人がいるということも確かだが、もうそういう奴隷精神を至上のものとする指導や教育は前時代的なものとして唾棄すべきものではないだろうか。叱咤激励による「なにこの精神」によって誰かのモチベーションを保つ時代は終わりにしてしまえばいいとさえわたしは思う。自己の内面にもっと耳を傾けて、裡から湧き出てくる純粋な興味や「やりたい」を大胆に示していってしまえばいい。 
 
「やってみたい」という自然な自発性が自由に発揮されるとき、最も自然な形で最高のパワーが発揮されるようになっている。生き生きとしている人は、みんな自分自身に対して素直というか、変に取り繕っていないように見える。あっけらかんとしている。カラッとして晴れている。そんな人たちに会うと、素直に素敵だなと思う。
多くの人がそうある世の中になっていったらいいなと、切に思う。