しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】毎日をゴキゲンで過ごすために

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日々過ごしていく上で人それぞれ大切にしているものってあると思うけど、結局わたしは、毎日をゴキゲンで過ごすことが何よりも大切だという考えに至りました。
そのためにどういう考え方で日々過ごしていったらいいのか、ずっと考え続けてきました。文字にしておくことで、忘れないように。自分自身への備忘録です。

 

精神的に参ってしまって、病気になってしまった時期もあったけれど、ようやっとそんな時期も乗り越えられてきたように感じます。
わたしはいま元気です。
楽しいことも悲しいこともあるけれど、心の健康を大事にして毎日ゴキゲンで過ごすために必要だと思うことを箇条書きでまとめました。誰かの助けになればうれしいです。ちょっとクサくても許して。
 
 

 1.自分の気分を良くする

 
いわゆる自尊心というか自己肯定感がとにかく大切だということに気がついた。
自己肯定感に理由は必要ない。「何かができる」ことは自己肯定感とは本質的には関係ない。
そうではなく、自分がしていること、着ている服、聴いている音楽、一緒にいる人など、自分の身の回りのあらゆることを、自分の気分が良くなる物事で埋め尽くしていくと、自然と自分が自分であることが受け入れられるような気がしている。それが多分大事。
「自信がある」というのはきっとそういう意味なんだろうと気がついた。自信とは、能力や優越感を担保にすることではない。自分が自分であることをそのまま受け入れることなのではないだろうか。
 
自尊心をゴリゴリに削ってくるような言動をしてくる相手からは距離を取る。近寄らない。関わらない。そもそも自己肯定感が保てないような環境に身を置き続けないこと。自己否定を積み重ねる日々を過ごしているのなら、きっと何か間違っている。
 
自分の機嫌くらいは自分で取ること。ましてや人に機嫌を良くしてもらおうとは思わないこと。誰かをゴキゲンにすることは難しいけれど、自分をゴキゲンにするほうが簡単だ。
 
たぶん今までわたしは、視線を下に向けて日々過ごしていたと思う。どこにいても「場違いなんじゃないか」とか「自分なんてここに居ていいのだろうか」とか考えながら、心がビクビクしながら今までずっと生きてきたように思う。いや今でもたまにそう思うことがある。
そうした精神的な閉塞感は、自己否定感から生じていたもののように思う。その閉塞感は自分の気分次第で払拭できるとわたしは考えるようになった。アゲていこう。
 
 
 

 2.比較しない。普通なんてない。

 
人と比べることを辞めると、だいぶ生きやすくなることを身をもって学んだ。今まで学校をやめたり、何かから逃げ出したりしたことは無かった。病気になってドロップアウトして「普通進むべき方向」みたいなものにしがみつけなくなった。「普通」からの撤退を余儀なくされた。
でもそうして初めて、人と比べることから自由になれたように思う。他人を指標に出来なくなった反面、「これからどうなるか分からない」ということ自体を楽しめるようになった。いらないものを捨てて、欲しい物を手に入れたように思う。
そもそも、「普通」なんて勝手に作り上げた妄想でしかなく、それを手に入れたら幸せになるものでもないという当たり前のことを実感した。「普通」と「普通に満たない自分」を比較することの無意味さを知った。何かに焦ったりすることがとても少なくなった。
 
これは不幸中の幸いのようなもので、比較しないことを手に入れたことは本当に大きかったように思う。
ルサンチマンや優越感のためになにか行動を起こす人にはなりたくないと思うようになった。そうやって起こす行動は、他人のために生きているようなものだからだ。溜飲を下げながら日々過ごすなんて、もう本当にくだらない。
勝手に他人と比較しては落ち込むなんて、ただの自傷行為でしかない。
 
誰かと比較しそうになったり、「普通は~だよな」という言葉が頭によぎったら、以下の言葉を思い出すことにする。
 
じゃああなたのいう、普通って一体なんでしょうか?
 
 
 

 3.姿勢を良くしてみる

 
わたしは猫背で、姿勢が悪い。これもゴキゲンで過ごす毎日にとって良くないのではないかとふと思うようになった。それに気づいてから意識的に胸を張ったり、肩甲骨をキュッとしたり、良い姿勢で歩いたりするように心がけるようになった。
姿勢によって考える内容や気分も変わるという科学的な研究結果もあるようだ。胸を張っていると、実際に何かしらの脳内物質が出て前向きな気持ちになれるという記事をどこかで読んだ。しかも脳内物質が出てくるまでに必要な時間はたった2分ほどだという。
たった2分背筋ピンとして歩いているだけで気分が良くなるんだったら、そんなにお得な話もない。お金もかからない。
2つ先の交差点にある信号機を見て歩くくらい前を向いて歩くようになった。街の風景や建物の上の方にある看板を見るのが楽しみになった。今までのように近くの地面に視線を落としながら歩くよりも、なんというかちょっと恥ずかしい。
 
でも大丈夫、誰もお前のことなんて見ていないから。
 
 
 

 4.陽の光を浴びる

 
2020年は色々と家に引きこもらざるをえない環境だったけれど、だからこそ日光を浴びると気分がスッキリするということが改めてわかった。天気の良い日は外に出て、少し散歩してみる。ちょっと歩くだけで全然気分が違ってくる。
科学的には日光を浴びるとビタミンDの生成が促進されるとか、日照時間の少ない緯度の高い地域では抑うつ傾向にある人が多いとか、色々日光と健康の相関関係を調べれば出てくるけど、それはそれとして単純に気持ちがいい。
みんな植物だったらいいのにね。
 
 
 

 5.勝手に深刻にならない

 
これはわたしもまだ全然できていないこと。放っておくとすぐ深刻になっちゃう。
何かをできなかったらどうしようとか、悪いことになったらどうしようとか、勝手に考えて深刻にならない。というかそんなこと考えること自体が時間の無駄。というかそういうことを考えているからこそ心配が現実になる。
心配や深刻さは未来から来る。勝手に悪い方向に未来を思い描いているからやって来る。しかしそれは妄想の産物でしかない。現実ではない。大丈夫だ。その妄想のほとんどは当たらない。そんなにアレコレ考える必要はない。
もとより何も考えてないような頭パッパラパーな人に対してはこういうことは言わない。
けれども考えすぎて、深刻になりがちな人にはぜひ伝えたい。人間の頭の計算はひどく精度の悪くアテにならないものだと。完璧主義なんてやめちまえ。
 
予想外のハプニングさえも「なんだかエキサイティングな展開になってきたな」と思えるようになったら儲け物。そうなれば深刻とはオサラバできる。
 
 
 

まずは自分をゴキゲンに

以上、毎日をゴキゲンで過ごすために、わたしが日々大切にしていることでした。気分なんてものは所詮自分自身の感情でしかないので、自分の面持ち次第でどうにでも変えられるということでもあります。だったらフキゲンではなくゴキゲンでいたい。
 
自分をゴキゲンにするためには「自分自身で選ぶこと」が大切なのではないかとわたしは思っています。自分がいいと思うものを自分で選ぶこと。その繰り返しで自分がいいなと思う環境を作っていく。その環境が自分をゴキゲンにさせる。
自分で環境を選んで、自分をゴキゲンにする。それは自分自身を大切にすることだともわたしは思います。自分をゴキゲンにするのに、誰かの許可なんて要りません。罪悪感を覚える必要なんてありません。自分を大切にする勇気を持ちましょう。きっとわたしはそんな勇気すら持とうとしなかったのだと思います。
そして自分自身をゴキゲンにさせることが、巡り巡って他の人をもゴキゲンにさせるのではないかと、わたしは考えています。自分が満たされていないと、相手を満たすことは出来ないと思います。
 
 

おまけ:病気になったときに効いた本

精神的にキツイときから立ち直るにあたって、たくさんの時間を過ごす中で様々な本を読みました。

ゴキゲンになりたくてもなれない中、一番ガツンときたのが泉谷閑示先生の『「普通がいい」という病』という本でした(下記リンク参照)。当時心の中で言葉にできずモヤモヤしていた社会や自分に対する不安や不満がたくさんありました。それらを的確に指摘している本です。そうした本の中の言葉にふれることで心がスッと軽くなるような気持ちになりました。

 

大丈夫です。おかしいのは世の中のほうです。

 

精神的にツライ時期を迎えた方で、言葉や文章が頭に入ってくるようになったらぜひ読んでみてください。

 

人間社会の至るところで多数派の信奉する価値観によって、私たちは知らず知らずのうちに一種の洗脳を施され、「自分で感じ、自分で考える」ということから遠ざけられてしまっています。たとえば、「あるがまま」の人間は邪悪なもので、「あるべき」姿に向けてしっかりコントロールすべきなのだといった考え方などは、そうしてすり込まれた価値観の代表格です。

講談社現代新書 『「普通がいい」という病』より

学校や社会からこうあるべきだ、という「教育」を真に受けてしまいすぎるようなタイプの人であればあるほど、自己肯定感が健全に作用しなくなる。そうした問題をわたしは経験しました。

その結果、身体的な症状への発露という形で自己否定感が爆発してしまいました。そうなってしまってもなお「結局自分は甘えているだけではないのか」という自己否定が重なり続けていくものです。いえ、そうなってしまったからこそなのかもしれません。そもそも、そうした自己否定感それこそが、病気を引き起こす原因だともつゆ知らずに。

だからこそ、そうした思考のクセのようなものを根本的なところから見直す必要がありました。そこに気がつくこと自体に時間がかかりました。恥ずかしさもありました。これは破壊を伴う再構築ですから、当然時間がかかります。犠牲を伴います。グチャグチャにもなります。

そうやって再構築をしていって初めて気がついたのは、「自分が自分のことをゴキゲンでいることを許さない」という愕然とするような事実でした。

もっと頑張らなきゃダメだとかいって、社会相手に勝手に我慢比べ大会を開催していたのです。ある種、虚勢を張り続けていたようなものです。重い枷を背負わされながらも、それが当然のこととしてバカ真面目に背負い続けてきたのです。そんな自分をバカみたいだとも反省しました。視野があまりにも狭すぎました。そういう生き方は疲れてしまいます。そんなことをしなくても生きていけます。

こういった病気は本当に不思議なもので、ウイルスや病原菌が理由によるものではなく、「自分で自分を苦しめる」類の病気です。自らの頭が自らの心を攻撃し続けた結果、自らの身体さえも自らを攻撃し始めるのです。なぜそんなことになるのか、当時は全く納得などできず怒りを感じていました。しかし今考えてみるとそれは、身体からの「そういう生き方はあなたにとって好ましくないよ」というメッセージだったのだと、そう思います。

長くて暗いトンネルでの葛藤があったからこそ、わたしは今、ある種の枷が外れたような心持ちで日々過ごすことができたのかもしれないとも考えています。もっと肩の力を抜いてもいい、案外テキトウでもなんとかなると思えるようになりました。

 

 

自分を自分でゴキゲンにさせないような枷をつけている人への、枷をつけていた人からのメッセージでした。偉そうに聞こえるところもあるかもしれないけれど、わたしもまだまだゴキゲンで過ごす練習をしている最中です。

この記事の中に、誰かが少しでも生きやすくなるためのヒントになる言葉があれば幸いです。

 

「普通がいい」という病 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病 (講談社現代新書)