しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】黒衣のナルシシズム

 

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ギターの演奏会が間近に差し迫っていて、練習をしているときに、わたしがふと「なんでギターなんか弾いて、しかも発表なんてしようとしてるんだろうなあ」とぼやいたときに、その場にいた人が返答した内容がそう言った。「音楽の発表をするなんて、誰でもナルシスト入ってないとできないでしょ?音楽だけじゃなくて、そういう人前で発表する系は全部。」なのだと。

 

こんなことを言われたとき、なんだか「いやいや、そんなことないでしょー」と無性に反論したくなっていた。というのもたぶん、ナルシストというワードが、なにやらとても否定的で良くない言葉のように思えたからだ。自分の能力や才能といったものを鼻高々に他人に見せびらかして、「ほら!どうだ、見たか!すごいだろ!」と威張りちらしてエラくなるような意味なのだと捉え、「いや、自分はナルシストなんかじゃない!そんな人じゃない!いや、そんな人になりたくない!」というように、頑なに首を横に振りたい!と感じたからだと思う。この言葉を言われたそのときは、瞬時に的確な言葉で返すまで思考がまとまっていなかった。そのため、「うーん……そうなのかなあ」という曖昧な返事しか出来なかった。というわけでこの場を使って、出来る分からないが、うまく思っていることを文章で表してみようと思う。
 
まず、「なんでギターなんか弾いて、しかも発表なんてしようとしてるんだろうなあ」 という、ぼやきから考えていこうと思う。そもそも、わたしが演奏会で発表したい!と思える曲というのはどんな曲なのかという点を考えたときに、以下のような意志が根底に共通していると思っている。
 
「わたしは、この曲のこの部分がもう最高に美しいと思っています。なので、どうかそこを聴いてほしいんです。とはいっても誰か他の人に弾いてもらうのはエゴの押し付けだし申し訳ない。ですから自分で弾きます。その代わり、聴かせたいポイントは全部心得ているので、そこは誰になんと言われようが、自分のニュアンスでやらせてもらいます。」もうちょっと短めで言うと、「わたしのことなんてどうでもいいから、ちょっとこの曲聴いて! 」ということになる。これでもちょっと長くなってしまった。誓って、難しい超絶技巧をひけらかすためであったり、あるいは大衆におもねるような、有名な曲を適当に弾いておけばとりあえず喜ぶだろうなどといった妥協による曲は発表しようとはしない。そういった曲を一度もやったことがないと言うのはウソになるが、少なくとも純粋に自分の意志だけで始めたことはない。まだ、ない。これからどうなるかはわからないが。
「自分だけにしか出せないニュアンスを出そうとして弾きながらも、自分のことなんてどうでもいい」という、この一見矛盾した感覚。さて、この感覚は理解していただけるのだろうか。わたしの拙い文章表現では、うまく説明できるのか相当に怪しく思えてきた。とにかく、誰かに技術や腕前を認めてもらうために弾いているという感覚はない。これだけは確かなように思える。そうした感覚でギターを弾くことができたのもきっと、大学のサークルという来るべきコンクールや、競争すべき演奏相手といったものが無い環境でやれていたことがひとつの遠因であると思う。そういった意味では、「好きだから弾く」というある種の純粋さを保ってギターを弾くことのできる、恵まれた環境だったのだなあと思っている。
 
「競争があってこそ人は成長するはずだ」という人がいる。それは人が成長する上での大事な要素だと思っている。手塚治虫はまさにそのタイプだと自ら語っていた。現に受験や経済活動というものは、そうした競争原理によって成長を促進させている側面が大きい。けれどもわたしはどうしても、競争や人から比べているという視線が向けられると胃が痛くなったりする性質がある。自律神経系が狂い出し、めまいがし、すこぶる体調が悪くなるのだ。体調が悪くなるので、競争することは昔から得意ではなかった。なのでサークルという競い合いのない環境はありがたい限りだった。中学や高校では、テストという毎回の競争があって、点数で勝負するという環境があり、敵対心の視線を向けられる回数が多かった。わたしはそうした視線に潜む「怨嗟」や「驕傲」みたいな感情を汲み取ってしまい、そのネガティブな感情に辟易していたのだった。そしてその競争の結果よって、テストの点数の高い、頭のいいとされる人が市民権を得たり、発言に影響力をもつようになっていく過程を見ているたびに、なんともいえない嫌な感情になった。それによって自分が不利な立場に追いやられることはもちろん嫌だったが、反対に、ほんとうはあるはずもない市民権を勝手に押し付けられて、有利な立場に祭り上げられることも同じくらい嫌だった。
 
「そんなテストの点数ごときで一喜一憂しているのは、くだらないな」と思ったことは数知れずであったが、何しろテストは何度もやってくる。なのでそうした逃れることできない呪縛に、ひたすら耐えるしかなかった。「テスト何点だった?」という問いかけは、いまでも嫌いな言葉のひとつである。回答いかんによっては対等な関係性を永劫構築できなくなるからだ。
自意識過剰かもしれないが、たかがテストごときでちっぽけな主従関係が生まれるのが苦痛だ。
 
 
さきほど述べたような、「わたしのことなんてどうでもいいから、ちょっと聴いて!」という感覚。やっぱりこの感覚も、「良いと思うものをシェアしよう!」という感覚、つまり共有したい欲なのではないかと思っている。喜びや幸せを共有することの気持ち良さを味わい、誰かと同じ感情を分かち合いたいというということの表れではないのか、という自分なりの答えを見つけている。決して自分を驕るつもりはないが、共有したいという気持ちで取り組む音楽のほうが、誰かをあっと言わせてやろうとするために取り組む音楽よりも、きっと純粋に取り組んでいる分、聴いている人に響いてくるものがあるなのではないかと考えている。そして、何よりも好きな曲をやるからこそ、細部にこだわって極めようとする。そうなれば、おのずと素晴らしい音楽になる。そう思っている。そう願っている。
 
楽器をさわりはじめて、見出した教訓。
自分自身が楽しんでいなければ、他人を楽しませることはできないのだということ。
 
それは音楽に限らず、きっとあらゆることに当てはまる。中身の伴わない愛想笑いや作り笑顔のうちに、なんとなくその人の偽りを見出すことができるのは、その人が満たされていないことを敏感に感じ取るからなのだと思う。明らかに過労働をしているお店の店員さんに「ありがとうございました」と笑顔で言われてもどこか嬉しく感じないどころか心配にさえなるのは、その店員さんの面持ちや態度から、不幸がにじみ出ていることを読み取ってしまうからだ。
 
「お客様第一で取り組みます」などと騙る組織は枚挙に暇がないが、誰かのために何かをする前に、まずは自分たちをどうにかして満たすことの方がはるかに重要なことではないかとわたしは思う。キレイゴトかも知れないが、誰かの犠牲の上に成り立っている物事というのは、表面上、周囲を幸せにしているようにみえて、必ずどこかに哀しみを帯びる。苦しみがある。ほころびがある。
 
そしてまた、その人が幸せにしたいと願う相手ほど、幸せに出来ない。残念ながら、相手を心の底から笑顔にすることも出来ない。紺屋の白袴ではいけないのだ。「自己犠牲」とは、かくも美しい響きを持っているが、その本質はとんでもない偽善である。一見キレイな色をした毒の泉のごとき、不幸の源泉であるとわたしは確信している。毒の泉を仰ぎに行ってはいけないし、ましてやそれを人に勧めて飲ませてもいけない。
 
他人のために何かをしているとき、その人の心の裡に、みじめさが芽生えて膨らんでいくようであれば、それは自己犠牲なのだと思う。そうしたみじめさはやがて爆発して「あなたのためにこんなにしてあげているのにどうして」という不満をもたらす。でも見返りを求めた時点でゲームオーバー。「自己犠牲だ」なんて感情が心に灯り、みじめさやいじけが心に発生したが最後、それは見返りを求める欲望にしか発展していかない。今の自分の状況が「みじめだ」とか「いじけている」とかと気が付いたら、環境や考え方をちょっと軌道修正するタイミングだと思ったほうがいいのかもしれない。きっとそのまま我慢していくと後で大爆発して取り返しのつかないことになる。それこそ後悔してもしきれない。
 
他人から「自己犠牲の精神にあふれる人だ」と言われるなら立派な人だが、自ら「わたしは自己犠牲ができる人です」と認めてしまうならば、そこに偽善の影が忍び込む。お客様第一主義を続けていると自己犠牲が膨らんでいってしまう。それよりも前に、自分第一主義であることがきっとこの世の中にはもっと必要なことなのではないかと思っている。
 
 
 
またしてもちょっと話が逸れた。さて、演奏するということについては、まだ気をつけなければならないことがあると感じている。それを一言でいうならば、演奏者は出来る限り「透明でなければならない」ということだ。これはどういうことか。つまり、「俺の曲だ!俺が弾いてる曲だ!どうだ!」といったように、「曲そのもの」ではなく、「弾いている人」にフォーカスさせるように仕向けてはいけないのだと思う。あくまでも主役は「曲そのもの」であって、演奏する自分ではないという感覚を身に纏うこと。しかしそれでもなお、自分だからこそ出せる音を奏でることに集中する姿勢をもつこと。多分これを突き止めていくと、楽器を弾くのではなく、楽器に弾かされるとでもいえるような感覚を手に入れられるのだと考えている。
 
究極的には、自分なんていなくなってしまえばいい。
 
そして、演奏者がこのような感覚を完全に身につけたとき、きっとそこに現れるはずだった「緊張」もなくなるのではないかと予想している。緊張というのは「見られている」とか「うまく弾こう」といった雑念があるために起こる。しかし「演奏者として単に、主役である曲の隣にいるだけ」という黒衣の役割に徹することができれば、自分という存在は必要ないと思えるようになる。黒衣は緊張しない。あたかも自分なんていないかのような、自分を捨てた「透明の感覚」になれるため、緊張はなくなる。
 
こんな領域に達してみたいなあと思うけれど、まったくもってもう全然ダメである。人前で演奏するのは緊張する。それはきっと、純粋に曲を聴いてもらいたいという共有の感情以上に、「見られているからカッコつけよう」とか「見られているからうまく弾いて、すごいと思ってもらおう」といった雑念があるためだと思う。それは「カッコよくありたい」とか「すごいと思われたい」といった、自分の外側にあるアクセサリーを大きく見せようとする心であって、つまるところ能力や功績といった、自分に付属するものに対して執着しているからなのだと思う。残念ながら、わたしはひどく煩悩にまみれているのだ……。
 
 
ちょっと話はズレるけれど、たとえば「カーテンか何かで覆われていて、敢えて演奏者を見せない演奏会」っていうスタイルの音楽演奏会があったら、きっともっと多くの演奏者が緊張せず、観客側も純粋に音を楽しむことができる、よりよい演奏会ができると思ったのだけど、どこかにもうあるのかな?
 
  
アクセサリーに執着しないということ。これはなにも、演奏者だけに限った話ではない。演奏者と同じくらい、聴いている側も気をつけなければならないことだと思う。というのも、演奏会の主役は「曲そのもの」であって、演奏者でも、ましてやその人の肩書きでもないということを心得ておかなくてはならないと思うからだ。そうした、言わば外側のアクセサリーに惑わされて聴く人がいるのならば、きっとそれは本当の意味で音楽を楽しむことができていないのだと思う。それは音楽を楽しんでいるのではなく、アクセサリーの煌めきを楽しんでいるのだ。もう少し分かりやすく表現しよう。たとえば「有名なコンクールで優勝した経験のある人の演奏する音楽」という「期待」によって、ある人の演奏を聴きに来た観客がいるとする。ではここで、その観客が演奏会の後に述べる感想を予測しよう。それは、「やっぱり素晴らしかった」だ。これはもう断言してもいいくらいだ。その感想には「やっぱり」という枕詞がつくことから分かるように、「演奏は素晴らしいという前提で聴くという姿勢」が現れている。その姿勢は、兎にも角にも外側のアクセサリーに惑わされているということのなによりの証拠になる。つまり、その演奏者の功績をもって「期待する」とは、その人の功績に執着するということを示しているのだと考えることができる。
もし仮に、緊張か何かの要因で、その演奏が聴くに堪えないひどいものになってしまったとき、聴衆は「期待はずれだった」と失望の言葉を吐いて、音楽ホールを去っていくだろう。しかしよくよく考えてみれば、自分で勝手に期待して、勝手にがっかりしているのだから、その失望の原因の根源は聴衆自身にあるといえる。聴衆の中にある、「演奏者への思い込みという執着」が勝手にそうさせただけのことだ。
こうしたことからも分かるように、他者に期待なんてことを求めるのはナンセンスだと思っている。それはきっと、自分自身を不幸にしか導かない。この教訓もまた、音楽だけでなく、あらゆることにあてはまる。
 
 
 
さて、こうやって考えていくと、音楽については、やっぱり不思議と執着の話とつながってくるような気がしている。お客様第一主義というのは、ちょっと考えてみると分かるが、これは相手からどう見られるかを第一に考えるということであって、一見純粋な利他に見えて、実は強烈に自己を意識してしまっていることなのだと私は思う。たくさんの観客の前でたくさんの視線を浴びると、どうしたってどう見られているかを意識してしまう。それは大勢の他者に、自分がどうあるかを委ねているということでもある。だから緊張するし、場によってパフォーマンスが左右される。
 
己の裡に強烈に他者を侍らせること、それがエゴや執着の発生源であるのではないかという気がしている。
 
 
自分自身というエゴ=執着を捨てること。それと同時に、最大限楽しんで演奏すること。それが、観客を楽しませ、感動させるシンプルな2つの原則だと思う。それはひたすら自己を中心に据えるということを意味する。技術や功績といった自分のアクセサリーでさえなく、ほんとうに、純粋に、芯から、自分自身に集中するということだ。そしてそんな自分を愛し、最高に楽しむことだ。だとするならば、それはほんとうの意味で、自己愛的=ナルシストといえるのはないだろうか。
 
己の中心に向かっていくことで、むしろ己の裡から自己が消える。
強烈な己の核みたいなものが、己を透明で黒衣のような存在にするのではないかとわたしは思う。
 
以上、投げかけられた言葉を改めて考え直し、「人前で音楽を演るのはナルシシズムがあるからでしょ」という言葉に敢えていま、わたしなりの返答をするとしたらこう答えるとしよう。
 
「そりゃあそうだな!いや、であればこそだな!ナルシスト最高!」