しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】もっと光を

 

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今まで見知ってきた英語の単語でもトップクラスで好きな単語があって、それがenlighten(enlightenment)という言葉である。
日本語訳的には「啓蒙する」とか「教える」といった意味を持つ。とても堅苦しい言葉で、教会とかで使われていそうな言葉だ。
この言葉を知ったときの正直な感想は「へえ、そうなのか。でもいつ使うんだ?こんな単語。啓蒙なんて日本語でも使わないしなあ。」くらいのものだった。
 
 
その当時は「なぜ光=lightが動詞化すると、啓蒙なんて意味を持つようになるのだろうか」というところまでは疑問を感じたけれども、「なんというか、こう啓蒙って明るいものなんだな」程度のあまりしっくりこない解釈をしてモヤモヤしていた。けれども、光=ライト=lightという、とっても分かりやすく、もはやほとんど日本語にさえなっている言葉が、動詞化することを意味するenとenに挟まれているという奇妙な単語ということもあり(なんで前か後ろかのどちらかだけじゃないんだろう。どんだけen付けたいのよ)、不思議にも忘れることなく脳内にこびりついていたのであった。
 
以下は、その「enlighten」について、なんで「light」なのか、自分なりの解釈を述べたもの。
 
啓蒙するなんて言葉は日常的に使うものではない。というよりも使ったことがない。なんとなく上から目線で物事を言う、というような印象がどうしても拭えないし、滅多に使わないことから、相当の重々しさを感じる言葉だと感じてしまう。漢字のパット見の字ヅラからしても重々しい。ではどういう人が啓蒙なんて言葉を使うかというと、たとえば教会の神父さんや牧師さんみたいな人とか、哲学者みたいな人だったりする。そういった人々はみな、俗世間からは一線を画して、一歩うしろ側から物事を眺めているような視点を持っている。「多くの人が居ない場所に自分を置いている人たち」とでも言おうか。だからこそ、普通の人には見えない何かを考えたり、感じたりしている。わたしはその中でも、特に哲学者と呼ばれる人が最も啓蒙的なんじゃないかと思っている。なぜなら、彼らは簡単にタブーに入り込むある種の図々しさをもっていて、いともたやすく常識のタガを外して常識の外の世界に飛び込んでいくからである。きっと彼らは「世間」という名前の蓋をスポーンって開けて飛んでいってしまう。とにかく彼らは思考することにおいて自由な存在なのだ。
 
他にもこのように例えて表現すると分かりやすいだろうか。哲学者というのは、すぐ洞窟とか入ってみたくなっちゃう冒険家みたいな存在なのだと。怖くて誰も入ったことのない洞窟にすぐ入っちゃうような存在。だから彼らの言葉には、私たちに「そんなこと、考えたこともなかった」と言わせるだけの力を持っている。洞窟みたいな暗いところを懐中電灯か何かで光を照らして「ほら、見てよこれ」というように、洞窟に入ったことのない人にそのおもしろさを伝えること。これが「enlighten」ということなのだと思う。そしてこれを得意としているのが哲学者なんだと思う。
一方で宗教的な世界にいる人というのは、どうしてもそれぞれの信仰している宗教のドグマみたいなものをその基本方針に据えていること多いために、「ここは触れてはいけないから深く考えないでおく」という思考の不文律みたいな価値観があって、それに沿ったかたちで啓蒙することが多い。キリスト教からしてみれば、イエスの存在を疑わないことは当たり前すぎることで、疑問視すること自体がそもそも宗教ドグマの根幹を覆しかねない、ともすれば破門の対象となるような考え方だったりする。宗教という括りを原則として据えているために、疑うべき常識の範囲に限りがあるのだ。思考の不文律というのはそういったようなことである。
宗教人について、さっきの「哲学者と洞窟」のイメージで例えると、絶対に入ってはいけない神聖な洞窟が一番馴染みのある村の中心にあるイメージである。このような感じで、簡単に言えば思考の幅に宗教というかたちで制限がかけられているので(小さい子どもにとって有害なコンテンツを見れないようにするためブロックするペアレンタルコントロールみたいなもの)、仕方なしに狭まってしまうような気がしている。
 
そうした制限がかけられているという点においては、世間一般に住む人々も同じだと考えている。世間一般の人々は、むしろ宗教人よりも暗黙の了解のうちに隠された大量のルールの狭間にいるために、制限がより強いのではないかと考えている。
暗黙の了解のようなルールといえば例えば身近なところでいくと、家族やコミュニティの決まりごと、社会規範や社会の風潮といったものまで様々なものがある。これは別に、全てが暗黙の了解というわけではなく、例えば学校の生徒手帳に書かれた校則のように、紙面で明文化されたルールとして存在していることも多い。世間一般の人々は、そういった様々な大小様々な規範が幾重にも折り重なった中での暮らしをしているので、宗教人よりもよっぽど思考の幅に制限がかかってしまっていることが多いんじゃないかと思う。そういった意味で、一般的な人々が啓蒙するというのはとてつもない矛盾なのではないかという気がしている。幾重にも張り巡らされたルールの中で啓蒙するひとが発する、啓蒙まがいの言葉というのは、大抵「〜はしてはいけないですよ」なんていう内容で、ルールを守らせるようなmust・should系メッセージだったりする。それは啓蒙と呼ぶものではないという気がしている。なんだろう、それに敢えて名前をつけるとしたら「教育」だろうか。
また同じように、先程の哲学者と洞窟の話で例えるなら、彼ら一般人は「村人」ポジションである。村の中には人様の家という、入れないし、中も見えない空間がいくつも存在している。村の外にも危険な洞窟がたくさんある。けれど彼らは入れないし、その存在も知らない。何かの拍子で知ってしまったがために、試しに規則を飛び越えて入ってみようとすると「危ないからダメですよと同じ村人から注意される。そして「怖いところらしいから入らないようにしよう」と自制する。これが「教育」や「道徳」と呼ばれるものの最たる成果ではないかと思っている。
 
一般的なルールや常識を飛び越えて、もちろん宗教や不文律すらも飛び越えて、あらゆる疑問を浮かび上がらせ、それらに対し本気でぶつかっていくこと。それが哲学するということだと思う。そして、そうした未知との邂逅の中で見つけてきた「新しいと思える何か」を誰かに伝えようとすることが「啓蒙する」ということなんだろうなとわたしは思う。その未知の探索のために必要な道具が「光」。だから「enlighten」なのだろうなと。ここにきて、すごくシックリきた。自分ひとりで考えを巡らせた哲学の思索の末、手探りで何かを見つけたとしても、他の誰かに伝えるためには、見えやすいように光で照らしてライトアップしてあげる必要がある。啓蒙の場合、「光」とは言葉や文字のことを意味する。
 
一般的な常識の道も知りつつ、「いやそれでも自分はこっちの方がおもしろそうだな」と思える道を探して、敢えて外れて、自分で光を当てにいくこと。それはとても重要なことなのだと思っている。いいなと思えるところ探しというのは、とんでもなく労力が必要なことだ。そしてとんでもなく恐怖を伴うことだ。何しろ暗くて先の見えないものの中を、自分で懐中電灯をもって一箇所ずつ良さそうなところを手探りで照らしていかなければならないからだ。しかも、いいなと思えるところは、もしかしたら既に眩しいほどに照らされているところにあるかもしれないし、完全に未知の、誰も照らしたことのないようなところを照らさなければ見つからないことだってある。それでも、自分で探していこうとすること、その意志やその行為というものは、何よりも尊いものだと思う。
  
誰かにenlightenしたり、誰かからenlightenされてみたりと、そういう人間関係を築いていくことはとても貴重で大切なことだとわたしは思う。
それは直訳通りの「啓蒙する」なんて上から目線な堅苦しいことではなくて、まだ暗くて見えなかったところにある、見たことのない景色や場所を探して、「ああ、なんかここいいな」と思えるところを見つけること。そしてその後、「こんなの見つけたけど、どう?」と言いながら、色々な人に共有してあげられるようになりたいと思う。見えなかった景色に光を投げかけて、パアッと明るくし、そこで「見つけた!」と思ったおもしろいものを誰かと共有すること。この感覚がenlightenという言葉の核みたいなものなのだと解釈している。
 
それは、今まで経験したことなかったことを経験したり、相手に紹介したりということはもちろんのことだが、それよりも、今まで見えていて経験したことがあることなのに、視点をちょっと変えるだけで全く違って見えてくるということにフォーカスしてみたい。enlightenによってこれはこうあるべきだ、という固定概念を崩すのは、なんというか、心をスッと軽くして爽やかな気持ちにしてくれる。
「なんでこんなものが今まで見えていなかったんだろう」とハッとすること。盲目的だった自分を恥じたり、相手を軽蔑するのではなく、「こういうのもおもしろいよね」と好奇心をくすぐるような、わくわくするようなものをもっと探していきたいとわたしは思う。
 
 
 ゲーテは最期に「もっと光を」と言ったという話がある。
その意味するところは定かではないが、いままで語ってきたようなenlightenなら、死ぬ間際だけでなく自分も同じことを求めていきたい。光によって楽しくなるなら、それがいい。