しーずん見聞録

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【エッセイ】精神病をつくりだしている澄みきった世界

 

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精神病をつくりだしている澄み切った世界
 
この言葉は、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』という本の序盤に登場することばである。どういう意味なのか分からなかった。逆に「精神病は汚れて濁った世界から生まれる」のではないのかと最初は思ったが、それは違っていたように思う。ただちょっと考えてみたので、この一見逆説的な言葉の意味するところを自分なりに解釈してみた。
 

 

精神病の鑑定をする際に、その人が狂気であるか正気であるかを判断するために用いられる比較材料は、必ずその人の属する社会にあり、その材料は、いわゆる一般的な社会といったところでの「常識」や「作法」といったものである。その人が、どれだけ一般的な社会の「普通」から逸脱しているかを、常識と照らし合わせることで精神病は診断が進んでいく。つまり精神病の診断とは常に、常識との対照比較であるといえる。「常識」という言葉に「常」という言葉が含まれていることからも分かるように、患者が狂気であるか正気であるかは、その精神状態や思考論理が社会の中に「常に」存在しているか否かを見極めるということといえる。それが社会の常識として「常」なものであれば「正気」と診断され、反対に「常」ではない、あるいは「常」として認められないものだと診断されれば「狂気」と判断される。
 
精神科医は、患者がどれほど逸脱しているかの旗振り役である。精神科医の診断次第で、精神病なのかそうでないのかが決定されるのだ。精神病にもその他の病と同じように、医学書で策定された診断基準というマニュアルはある。ではあるが、肉体的な病と決定的に異なるのは、患者個々人との対面を通してしか、病気であるかそうでないかが判断できないということである。医者が変われば、もしくは患者が変われば、診断結果も容易に変化する。それは、個々の医者によって、常識の捉え方が異なるためであり、患者によって、どういった点において非常識にこぼれ落ちているのかもまた異なるからだ。
 
だから、人間の精神領域という、とりわけ全ての人間にオリジナルな領域を診断するということには、決してコンピュータの修理のようにマニュアル化された流れ作業で診断できるようなものではないのである。
職業として日々常識と非常識の境目に自身を置く精神科医は、一般社会、つまり正気の世界の「常識」や「作法」を鋭敏に感じ取っていなければならない。それらは判断の基準となるものなので、精神科医は「常識」や「作法」を熟知していなければ、社会的に誤った診断を下すことになる。また精神科医は、それだけでなく狂気の世界のことも知っておく必要がある。なぜなら彼らは、「常識も非常識も受容できる最後の者」としての役割を果たさなければならないからだ。もしも患者が正気であるところの社会に復帰したいと願うのであれば、その人の狂気をいったん正面から受け止めてもらう必要があり、社会に復帰するために己の論理思考をある種「矯正」してもらえるような人が必要になる。だが、一般的な正気の人は、「狂気に晒されて、自分も狂気へと引き込まれてしまうのではないか」といった恐れから、狂気の人々との会話を持とうとはしない。だから狂気の人々をまともに取り扱おうとはしなくなる。陥った狂気を戻せるのは正気の人間にしかできないのにも関わらず、正気の人間のほとんどは、その行為を拒否する。であればこそ、狂気と対面し、狂気を真っ向から受け止めることのできる、正気の側に導く力をもつ精神科医のようなタイプの人が必要なのである。だから精神科医とは「境目に立つ人」のことを指す。
さて、狂気とされた人が正気の世界に見切りをつけた場合に行き着くのは、必ず同じ狂気をもつ社会であり、そこに安住するということは今までの正気の社会との決定的な決別を意味する。その場合、狂気と呼ばれていた人の逸脱性は意味を成さなくなる。同じ狂気に囲まれたとき、それはもはや狂気ではなく、むしろ正気となるのだから、ここにおいて精神病は消滅する。
 
一言でまとめると、精神病とは「大多数からの逸脱」のことである。
 
社会が高度になり秩序の純度が高まるとき、常識の側から要請される、排除すべき非常識の量は増加していく。秩序の純度が高まるということはつまり、秩序の中にある混沌が許される閾値がどんどん低下していくということである。こういった意味において、フーコーの言うように、「澄みきった」世界になればなるほど、精神病として扱われる精神的な社会逸脱が増加していくのである。秩序側の人間は「この考え方をしているあの人は、頭がおかしいのではないか」と主張して、その対象となった人を精神科医のところへ送り込む。あるいは患者自身が「こんな考え方をしているわたしという人間は、頭がおかしいのではないか」と自問し、常識との照らし合わせを自分で行うことで、自ら精神科医のところへ赴く。こうした疎外の判定は必ず、常識側からの要請であることから、常識は結果として必ず「正しい」ものになる。だから、例えば国会や会社、あるいは公的な組織などといった多くの人間が集う中で多数決の原理が採用されるのは、ある意味当然のことといえる。それは常識の策定であり、非常識のふるい落としの儀式なのである。このように考えていくと、道徳というものが土台としているのはちっとも崇高なものではなく、ただ単に大多数が賛成しているから、というだけのことに過ぎないと言ってよい。
 
しかし、これは何も精神病に限った話ではなく、肉体的な病にもあてはまる。あらゆる健康からの逸脱を「病気だ」と名前をつけて断定することが、最も病気を増やしているのだ。肉体的な病の場合、狂気か正気かという表現ではなく、病気か健康かと表現されるのだが、その境界をどこに定めるかは医者の判断にかかっている。血圧がある数値より高いのであれば、高血圧であり心臓の病気だ、という風に。しかし肉体的な病の方が、精神と違ってより物理的な差異がある場合が多いだけに、より判断基準が明確で普遍的なものとなる。
 
現代社会では、多くの人々がいわゆる生活習慣病を患っていて、国民の死因の中で最も多いのがガンであると言われる。けれども、例えばそもそも生活習慣病という定義がなければ「ただの肥満」でおわるものが、メタボリックシンドロームと呼ばれることはない。同じように、ガンというものが発見されなければ、その人が亡くなるとき「老衰死」というかたちを迎えるはずである。このように考えていくと、あらゆる「老衰死」は、いつかその原因が発見されることを経て無くなる。医療の発達によって、いつか「老衰死」という概念は消滅するはずである。このように、論理や根拠を働かせて、あらゆることになんとしてでも意味を見出したくてたまらないのが人間なのである。それが人間であることの証であり、また人間であることの弊害なのだと思う。本当につくづく思うのだが、これほどまでに存在自体が矛盾をはらむ人間という存在は、他に無いのではないかとわたしは考えている。
 
病気の定義を作り、それに当てはまる人は病気だと宣言してしまえば、その人は病気なのである。だから本来的には、健康と病気の間に境目など存在していなかった。人間が論理を働かせてあらゆることに意味を見出し、世界で起こる出来事や人間の体内で起こることを細分化し明晰にしていこうとすればするほど、病気は増えていくのだ。だからこそ、世界が澄みきっていけばいくほど、病気は増えていくと言えるのだ。このように考えると、フーコーの述べた言葉の意味が見えやすくなってくる。であるならば、肉体的な病気と精神病の違いも、どこにあるというのか。
 
病気を作り出すのは、いつも医者の方なのだ。社会や医療が高度になればなるほど、世界は細分化され、あらゆる基準が作られるようになる。そうした、常に厳しいほうへと登り続ける基準から漏れたとき、その人は病気だと診断される。こういった意味でいえば、精神病と肉体的な病の間に違いはない。診断の基準となるものが「社会常識」であるか「医療の発達」であるかという違いだけだ。だから健康とは、大多数であることと同義である。人は大多数であることに安心を抱く。人は健康であることに安心を抱く。それらはほとんど同じようなものである。
 
最後に、病気を作り出すことが医者の役目だということについて、完全に医者に対してケンカを売っているということを覚悟の上で、ちょっと皮肉的な捉え方をしてみよう。一言で言って、患者が病院に来てくれなければ医者は儲からない。社会の既得権益として成立していかない。だから医者が病気を作るのだ。不安を煽るのだ。薬を売りつけるのだ。保険をかけるのだ。だから病院は、ビジネスの性質を必ず帯びる。
医者は病気を治すが、医者が、もしくは社会常識が病気も作り出す。だから病気の治療とは、いつでもマッチポンプだと言える。しかしその流れの中に善意や悪意といった意志はない。
 
大多数が正しいという必然の理がある限り、世界はどうしようもなく「澄みきって」いくのである。