しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】調和という名のディスコミュニケーション

 

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「今日もいい天気ですね」から始まる一連の社交辞令とか、それは本当に相手に対して何かを聞いたり伝えたりしようとして発している言葉なのか、独り言と何ら変わりない言葉ではないのか感じる言葉の数々に触れることがある。
こういった会話は、お互いに初対面だったらある程度は仕方ないことなんだけども、いつまでたっても、ひどい時には、家族や友だちなど、近しい人にも絶えずそういうウワベの会話をし続ける人もいる。自分だってこういう会話をしてしまっているなと時に感じることがある。
 

 

わたしはこんな感じの上滑りなコミュニケーションのことを指して、ヌルヌルコミュニケーション、略して「ヌルコミ」と呼んでいて、「これは会話として成立していないな」と心の中で悪態をついたためしは数知れずである。そして、その会話が自分に向けられていようがいまいが「頼むから自分の言葉でしゃべってくれ」と思ってしまう。それが自分に向けられていたときに「お互いに当たり障りのないことばかり喋るのはやめにしませんか」と言ったこともあった。

 
 
ヌルコミのような、お互いに想定通りの展開でしか進んでいかない無思考型の会話って、無意味であるどころか、実は有害でさえあるんじゃないのかなという気がしている。つまりそれはキレイな調和に見えて、実はとてつもなく自己の内面に対して不調和的なのではないかとわたしは考えた。
 
ヌルコミというのは、一言で言えば「あなたも、こうだよね?」と、相手が同質であることや、同調してくれることを確認するために用いられる会話であるとわたしは思う。「山」と言われたら「川」と答えるのが当たり前で、それ以外の返答が返ってくることは想定されていないし、そもそも求められてもいない。もしおかしな返答をしてしまったら、その時点で、「あの人はちょっと変」だとか「話が通じない人だ」というレッテルを貼られてしまう。同じ常識を持っている仲間であるかどうかという踏み絵。それがヌルコミが行われる本当の意義だとわたしは思っている。
しかし、そのような「ひとは他人とは違うということを前提としない会話」というものは、世の中には結構多いような気がしている。誰に対しても判を押したように同じ質問を投げかけるような人間味の無い会話。そうした機械的な言葉を投げかけられるとき、わたしは「あ、いま相手から人として見られていない」と気がついてしまう。それに気づいてしまった最後、もう「人間としての会話」は閉じられる。お互いの感情や情緒というものは一切合切排除され、ロボット同士がプログラムされた情報をやりとりするみたいに、機械的なやり取りがなされるだけになってしまう。相手が上っ面の会話を望んでいるのなら、こちらも上っ面の会話もどきしかしなくなる。というよりそうすることしか出来なくなる。
 
ヌルコミという、会話もどきみたいなものがなされるとき、結局のところ、相手がどのような返答を返すかなんてほとんど関係がない。しかも相手が誰であるかなんていうのも関係なかったりする。「これは、この人に向けた話だ!」なんていうように明確な相手も必要ない。そりゃあ当然の話である。なぜなら、こうした世間では、誰に向けて話そうが、「うんうん、そのとおり」と返ってくるものであるし、そもそもそれをしたいがために成される会話だからだ。そういう会話を繰り返されている場が身近に多くなれば多くなるほど「あれ?別にわたし、この会話に特別必要なくね?こんな内容だったら、わたしじゃなくても話せるような内容だし。」みたいな感想を抱くようになって、その自分の交換可能性から来る「虚しさ」みたいな感情が湧いている人は多いんじゃないかと思っている。
 
このように、ヌルコミの良くない所は、わたしがわたしであることの意味を失わせることである。わたしがわたしでなくても良くなるということは、極端に言ってみれば、ある種「わたしの死」みたいなものであって、ヌルコミしたときのあの虚しさというのは、実は、お通夜に行ったときのあの感覚。死に相対したときの哀しみのような感情と同じなのではないかとわたしは推測している。
 
話を戻してヌルコミの細かいディテールを説明すると、こういうタイプの会話は、全然会話なのではなく、正確には「同調性の確認作業をして安心しているだけ」ということになる。よって残念ながら、これには「会話」ではなく「会話もどき」という名前をつけざるを得ない。
会話もどきとは、常識から外れていないということの確認作業であって、さっきも言ったように「ひとは他人とは違うということを前提としない会話」なのだ。わたしはあなたであって、あなたはわたしである。わたしが感じていることは、あなたも感じていて、あなたが感じていることは、わたしも感じている。それを当然のこととして捉えることである。しかし、そんなことありえるはずがないというのは誰でもわかることだと思う。なぜならわたしはあなたではないからだ。
 
先ほども言ったように、会話もどきが成立しなかったとき、つまり考え方の同質性や同調が得られなかったときに厄介なことが起こる。具体的には、相手から「あなたはおかしい」と返されたときだ。自分は世間や常識から外れていないという確認のために発した言葉が否定されたとき、つまり同調性の確認作業がとれなかったとき、その人はひどく揺さぶられ、心配な気持ちに陥る。そして「いや、自分は間違ってないはず!」と孤独の不安を感じるようになり、また別の人に「わたしは間違ってないよね?」なんていう風に助けを求めにいく。
 
それならまだいいのだが(本当はこっちの方が良くないのだけれど。なぜならこうした行為があまりに溢れると、外部からの揺さぶりに対して、それに絶対屈しまいと世間が意固地にさえなって防御、修正し続けるというループが生まれるので、結果的には世間や常識がどんどん強化もとい教化されていく。これを心理学者のフェスティンガーは「認知的不協和」と呼んだ)確認作業という会話もどきが失敗に終わったとき、否定した相手に対して「お前、おかしいだろ」なんて怒りを向けるという人もいたりする。少し考えてみると、この怒るという反応も、納得できる反応だったりする。「世間の中で生きよう」と、その人が必死に世間のマネをして築きあげてきたものが否定されるのだから、なんだか自分の基盤となっている価値観を脅かされ、自分の存在自体を否定されたような気分になる。怒るというのは、自分の存在が危ぶまれるような気分になって、そんな揺さぶられた自分を守るべく、必死に非常識の侵略をとどめようとしている防御反応なのだ。この防御反応は、大局的にみると世間自体を非常識の侵略から守ろうとすることにもつながるので、怒るひとというのは大抵、正義感が強かったり、規律やルールを重視する真面目な人だったりする。
 
そうした世間一般の価値観に何も疑問を抱かない人々にとっては、むしろ同調性の確認作業のとれない会話の方を指してディスコミュニケーションと呼ぶんじゃないかと思う。つまり、「会話もどき」がコミュニケーションであるのに対して、「会話」の方を指してディスコミュニケーションと呼んでいる気がする。自分が世間で培った常識の範疇から外れた意見を述べたりする相手に対して「あの人は、話が通じない」などといってバッサリ斬り捨てる。あるいはキッパリ否定するのは相手に無礼だと感じる心優しい人の場合、「前衛的」だとか「シュールだね」だとか「意識高い系だね」だとか言って、そこでバッサリ打ち切る。他にも、「ああ、それはつまり◯◯ということだね」みたいに自分の理解できる範疇に、なんとかしてカテゴライズすべく断定して、そこで会話を打ち切ろうとするような態度も、会話もどきだといえる。
しかしながらこうした姿勢は、そもそも他人の話を理解するために聞こうとしていない姿勢であるといえる。にもかかわらず、いつも決まってそんな「聞こうとしない側」の方が「あの人は、話が通じない」 と言うこと自体、おかしな話だと思う。「どの口が言うか!話をマトモに聞こうとしないのは、むしろあなたの方じゃないか!」とツッコミたくなる。
 
 
だから、ヌルコミのような同調性の確認作業を指してコミュニケーションと呼ぶのは間違っている気がしている。それは厳密には会話ではないとわたしは思う。想定された内容が返ってくる会話、それに敢えて名前をつけるとしたら「予定調和」と呼んだ方がより適切ではないかというような気がしている。調和が繰り返され続けた果てに生まれるものは、不調和に対する厳しい排斥である。独裁政治や言論弾圧が強力であればあるほど、その果てに残忍な迫害や大虐殺が発生するということが歴史上何度も繰り返されてきた。だからハーモニーというのはある意味で非常に恐ろしい。
さて、ハーモニーといえば、伊藤計劃『ハーモニー』という小説を遺しているが、その中にこういうセリフがある。
 
善、っていうのは、突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。
 
伊藤計劃 『ハーモニー』より 早川書房
 
この言葉からも分かるように、同調性の確認作業というのは「世間からみたところの善」という価値観を持続させる意志であって、であるならば世間的にその行為はとても「正しい」行為であるといえるし、もっと言えばそれは推奨される行為であるとさえいえる。だからそれは、もうどうしようもなく「善」なのだ。だからヌルコミというのは社会が円滑に動くために必要なものだと言える。
しかし過度に世の中がヌルコミで溢れかえってしまったとしたら、「わたしの死」で溢れかえることになり、抑圧された「わたし」たちが反旗を翻すことになるのではないか。自分の言葉を捨て、感情を捨て、能面で武装して「わたし」を抑圧し続けてしまったら、いつか「わたし」は噴火してしまうことだろう。調和というディスコミュニケーションが、数多くの「わたし」たちを抑えつける。誰も傷つかないようにと作られた調和が、むしろ「わたし」たちを真綿で締め付けるかのごとく傷つけている。
 
世の中の流れとしてはなんとなく、「わたしの死」が推奨され、調和のディスコミュニケーションへと比重が大きく傾いて行ってしまっているような気がしてならない。結局程度の問題でしかないのかもしれないが、 調和もやりすぎると自分たちを傷つける。調和しないというディスコミュニケーションだってあってもいいのではないかと、わたしは思っている。
 
 
さて、今回のオチ。
 
「みんな違って、みんないい」なんていう言葉がある。
これに対して、「ほら、いい詩ですね。みなさん多様性を認めましょうね」
なんていう言葉が学校の先生から紡がれるとき、わたしの内部には、なんかどうしても「嘘つきめ」というドス黒い感情が発生してしまう。一体どうしてか。
 
なぜなら、先生がその言葉を発するときにそこにあるのは、ただひたすら「多様性を認めるという価値観をもつ言葉それ自体」を世間が「正しい」と認めよと主張することだと思ってしまうからだ。もう少し分かりやすく表現するならば、「みんな違って、みんないい」という言葉の響きが美しいものなので、その言葉の意味はどうでもいいからとにかくみんなに広めましょう、ということだ。彼女がこの詩によって最も伝えたいはずの、「多様性を認める」という本質的な価値観自体は無視され、言葉だけが独り歩きして「正しい」ものとして崇められているようになっている気がするのだ。だからわたしは、そういった、実は意味を咀嚼し勘案していない皮相的な先生の物言いに対して、どうしても嫌悪の感情をもってしまう。
 
じゃあ例えばいまわたしが「多様性なんて認めません!」と高らかに宣言したとしよう。するとどうであろうか、先生は「お前はとんでもないやつだ」と言ってくるかもしれない。そうやって非難してきたとして、さてどっちがほんとうに多様性を認めていないんでしょうね?という難しいパラドクスが浮かんでくるのである。