しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】銘酒「人生のオマケ」について

f:id:SE4S0N:20200122165114j:image
 
「人間やっぱり、風呂上がりの一杯がサイコーだな。まっ 後の人生はオマケみたいなもんだよ」

 

 

 
このセリフでピンときた人がいたら、その人とは一晩中語り合えるに違いないと思っている。その場合はぜひ語り合いたいものである。というわけで、もし、そんな語り合えるときが来たときに備えるために、わたしが銘酒「人生のオマケ」について考えていることを、前もってまとめてみようと思っている。

 

この人生のオマケについてちょっと概要を語ってみようと思う。
ゲーム「ドラゴンクエスト5」で、こんなお話がある。ルラフェンという名前の街があって、そこにはとんでもなく美味しい極上の名産の地酒がある。それが銘酒「人生のオマケ」である。ルラフェンの街の人たちは、その貴重な地酒を旅人に知られたくないと思い、わざと「恐ろしく不味くて忘れられた酒」だと嘘をついてひた隠しにしている。でも実際には、あまりに美味しいので、このお酒を飲んでいる時以外の人生はオマケに思えるほどなのだという。だから名前が銘酒「人生のオマケ」 。冒頭にあげたセリフは、そんな銘酒「人生のオマケ」を飲んでいるところらしいルラフェンのとある男の人に話しかけると返してくる言葉(ひとりごと?)である。ちなみにこのお酒、のちにゲーム内でアイテムとして街の人から譲ってもらえる。飲むことはできないけれど、ルラフェンの代表的な名産品として博物館にコレクションできるようになっている。
そもそも、このイベント自体が直接に本筋のストーリーには関係しない「オマケ」だったりする。
 
けれどもわたしは、この「人生のオマケ」というワードにピンと来て、理由もわからずに「いいな」と思っていた。そして、それがどういう意味なのかずっと考えていた。その内容が以下である。
 
 
たとえばオマケとしてカードやフィギュアみたいなオモチャがついているお菓子っていうのがあると思うけれど、わざわざそのお菓子を買う子どもって、どう考えてもそれにちょっとだけ付いてるウエハースとかチョコレート目当てであるはずがない。オマケ目当てで買っているはずである。オマケがついているから買うとなると、どっちがメインでどっちがオマケか分からない。むしろお菓子の方がオマケになっているのはもう間違いない。
おまけ付きお菓子について考えていたら、自分の経験を思い出してきた。わたしは小さい頃、「チョコエッグ」というフィギュア付きチョコレート(チョコレート付きフィギュア?)をやたら買っていた時期があった。卵型のチョコレートの中に、プラスチックのカプセルが一つ入っていて、その中にわりとしっかりとした造形の動物のフィギュアが一つ入っているというものだ。出て来るフィギュアは売られている時期ごとに10種類ちょっとくらいあって、なんとか全種類のフィギュアをコンプリートしたいと思って集めていた。買えども買えども同じ種類のフィギュアが重なったり、シークレットのフィギュアが出なかったりで、最終的には100個を優に超える大量のフィギュアを持っていたと思う。その代わり冷蔵庫の中には、ほとんど原型を残したままの卵型チョコレートが食べられることもなく大量に保管されてしまっていた。チョコレートもオマケなんてレベルじゃない美味しさだったのにもかかわらず。
こんな自分の体験から、どうなったら「オモチャがオマケで、お菓子がオマケじゃない」で「お菓子がオマケで、オモチャがオマケじゃない」になるのか。その境目はどこなのかということをふと考える。
 
結果、この境目のポイントは「期待」にあるという結論が出た。「ああこのお菓子、オマケがついてくるのか。なんか面白いのが出てくればいいな」なんて、何が出てくるかわからないオマケに一切期待をかけずに楽しんでみる。これは「オモチャがオマケ」の姿勢だ。一方で「このオモチャが出てくれ!お菓子なんてどうでもいい!」と、オモチャの内容を選別し、欲しいものを願い、期待をかけること。これは「お菓子がオマケ」の姿勢だ。わたしのチョコエッグに対する姿勢は圧倒的に後者で、いわばコレクターみたいなものだった。買って、チョコレートを割り、カプセルを開けて中身を見るまでは、何が入っているか分からない。その瞬間まで期待しまくりなのであった。そして失望する。「うわまた同じのだ…」と。そしてまた、性懲りもなく新しいチョコエッグを買いに行くのであった。
というわけで、どちらがオマケでどちらがオマケじゃないかの境目はとても簡単で、要はオマケに期待しているか、期待していないかという違いでしかない。たかがオマケと捉えるか、されどオマケと捉えるかという違いだ。だけれども、この捉え方の違いって、結構大きなものなのではないかとわたしは感じている。
 
 
ルラフェンの街に話を戻そう。お酒の名前は「人生のオマケ」だった。人生すらオマケと見てしまう、この軽さよ。しかし、この軽さは見習わなければならないことだと考えている。彼らから言わせれば、人生ですら、たかがオマケなのだ。
 
そういえばドラクエもゲームだが、どんなゲームにせよ、勝ちにいこうとなると、かなり肩に力が入る。「負けたくない」となって、こわばる。期待をする。色々と用意をしたりして、あらゆるものを揃えようとする。そうしたのちにゲームに負けて、イライラする。勝者を憎み、自分を僻む。とまあ色々と大変なわけだ。しかし敢えて勝ちにいこうとしないで、ゲームを楽しみにいこうとすると、必要なことはたった一つだけ。それは「どうすれば楽しくなるか色々と試してみる」ことくらいしかない。この場合、自分が面白いと感じた時点でもう無条件で勝ちだ。笑った時点で勝ちだ。というかそもそもゲームって楽しむものじゃなかったっけ?熱中するとつい忘れがちになるが、それを忘れてはいけない。ドラクエもゲームだが、考えてみれば、あらゆることがゲームだと言えるのではないか。というよりもあらゆることが所詮ゲームなんだと思ってしまえばいいのではないか。
 
 
つまり、銘酒「人生のオマケ」とは「人生さえオマケっぽく楽しめよ!楽しんだもん勝ちだぜ」ということを教えてくれているのだと思った。そんなシンプルで大事なことをルラフェンの街の人は教えてくれていたのだと思った。だからあんなにわたしの記憶に残ったのだろう。こうしたゲームの隅っこに、ドラクエの偉大さを垣間見る。
 
 
どうせ人間はみな最後は死ぬ。それがいつなのかはわからないけれど、いずれにせよ人生なんてそんなもん、死ぬまでのオマケの時間なのだ。所詮は死ぬまでの猶予期間なのだ。それは定年退職してからではない。赤ちゃんとして生まれたときから始まって、いままさにこの瞬間さえもオマケであり、誰もが長い長いホリデーの真っ最中だ。そうやって考えたら、くだらないことで悩んでいたり、不必要に苦しんでいることが、なんだかとってもバカらしいことに思えてこないだろうか。この感触は、壮大な宇宙について考えを馳せた末にやってくる虚無感と似ているような気がしている。
ただし、この虚無感というのは、絶望的な無力感とは正反対で、いつも清々しい。
 
 
さて、死ぬまでの猶予という言葉から、猶予の英訳である「grace」という言葉が想起される。ふつうgraceというと、キリスト世界からしたら「神の恩寵」なんていうイメージが最初に想起される言葉であるが、その日本語訳のひとつに「猶予」という言葉が当たっているのは、なんとも面白いと思う。「grace」は「pleasing」などと同じ語源だと言われていて、「pleasing」というのはつまり「楽しい」というところとつながってくるわけだ。というようなことをまとめると、わたしはクリスチャンではないが、人生なんてそんなもん「神が与えてくださった、死ぬまでの楽しい猶予のこと」を意味しているのではないかと勝手に解釈している。
いや、そう解釈することにしよう。
人生はオマケという表現は、猶予という言葉にパラフレーズされ、graceという単語がとっくの昔に指し示してくれていたわけだった。
 
というわけでルラフェンの彼のように、美味しいお酒を飲んでいる瞬間は「サイコー」で、それ以外は「オマケ」だとしたら、もうオマケを楽しむに越したことはない。でも、どうせどこまでいってもオマケなんだから、何が起きてもどうせ期待なんてしていないし、なにかすごいことを成そうとしなくてもいい。この世の中に深刻なことなんてほとんど皆無といって良い。いつも「なんかとにかく楽しめればいいかな」程度の姿勢でいるのがオマケを充実させるための大前提なんだと思う。言ってしまえば、もう人生自体が全部ボーナスステージみたいなものだ。だれにも期待しないし、勝ちにいきもしない。というかそもそも生まれてきた時点で勝ってしまっているのだと思う。だから負けることもない。というか勝ち負けにこだわるなんてくだらない。楽しければそれで全部オッケー!ほら、なんだか楽しくなってこない?
楽しい人生のオマケがお酒を飲んでいない時間以外だとしたら、人生の99%の時間を指し示すことにはならないか?しかも残りの1%は「サイコー」ときたら、もう人生は、まるまる全部ハッピーということになってしまう。いやぁなんて素晴らしいんだろうか!
 
「人生のオマケ」に近しい言葉として、「生きてるだけで丸儲け」とか「ケセラセラ(lo que será, será)」なんて言葉もある。共通して言えるのは、とにかく軽いこと。そしてシンプルであること。オマケ。生きてるだけ。なるようになる。いずれの言葉も、力の入りまくった肩の力をほぐしてくれるような軽さを持っている。ぜひ多くの人に知ってもらいたい言葉だと思っている。そして言葉の発信源を調べてみてほしい。興味深いことに、これらの言葉の背景には、意外にも恐ろしく重く、不幸な出来事が隠されていたりするものだから。そんなことを知るたびに、軽さというものは、実は「重さを経たのちに得ることが多い」のではないかということに、はたと気づく。
 
さて、ルラフェンでは、銘酒「人生のオマケ」のことが「恐ろしく不味くて忘れられた酒」だと喧伝され、旅人にはその存在をひた隠しにされていた。やっぱり「人生のオマケ」なんて言葉は、どうしたって傍からみたら、ちょっと胡散臭いものに見えてしまうものだろう。その人の人生に対する姿勢が重ければ重いほど、「なんて無責任で適当な」なんて反発を覚えてしまうものである。はたまた、「オマケなんて抜かしておいて、色々な備えをしておかなくていいのか」とも思ってしまうのだろう。
 
思うに年をとるとは、そうやって不安という債権を積み重ねることでもある。
 
だからこそ、不安だらけであるはずの人生は「実はオマケだ」なんて言われても信用できないし、そんなキレイゴトは恐ろしく不味そうにも見えてしまうものである。
あるいは、人生はオマケという考え方があまりに理解できない感覚なものだから、酸っぱいブドウの如く、「どうせ美味しくないんだろう」なんて勝手な憶測も混じっているかもしれない。旅人から「そんな理想を掲げたような有るのか無いのか分からない胡散臭いもの、どうせあるわけないだろう」と遠ざけられ続けたことで、ルラフェン以外の街の人々からは、銘酒「人生のオマケ」は忘れ去られていったのだろう。最高に美味しいお酒だという謳い文句が信じられなかったために、むしろ逆に遠ざけられていった。だから町の人は拗ねてしまい、敢えてひた隠しにしてしまったのだろう。なんて、勝手にストーリーを作ってしまった。
 
ルラフェンの人々は、美味しくて貴重な銘酒「人生のオマケ」の存在を知られたくないと考えていたようだが、これには賛同できなかった。わたしとしては、少しでも多くの人々と、このお酒を一緒に飲めるようになってくれれば、もっと多くの人々と一緒にオマケを楽しめるんじゃないかと思っている。
 
みんながオマケの真っただ中にいる。せっかくのオマケだ。だったら楽しくやってやろうじゃないか!