しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】論理をすっ飛ばすもの

f:id:SE4S0N:20200120205636j:image
 
とても抽象的かもしれないけれど、分かってもらえる人には強く共感してもらえそうな感覚についての説明を試みてみようと思う。いや、この感覚は、きっと誰しも一度は経験したことあるんじゃないかというような気がしている。

 

 
 
たとえば「これってこういうことなんじゃないか」とアイデアが勝手に頭の中に湧く瞬間があると思う。むしろアイデアの方からこっちにやってくるような瞬間。その瞬間には、根拠なんかなくて「なんか知らないけど、こう」みたいな感覚。芸術家や音楽家の中にはそれを「降ってきた」と表現をする人もいる。あるいはこう表現すると分かりやすいのかもしれない。「思いつきで試してみたことが、案外しっくりハマってしまった」という感覚。
 
この感覚をわたしは昔から、「エウレカ経験」と名付けて呼ぶことにしている。
 
ご存じの方も多いと思うが、エウレカとは古代ギリシア語で「見つけた!」という意味である。これはアルキメデスがお風呂で言ったとされる言葉だ。そういえばお風呂って妙に色々なアイデアが湧いてくる不思議空間であることが多いと思うのだけど、これってなぜなのだろうか。
エウレカ」だけだとアルキメデス交響詩篇的なアニメの青髪ショートの女の子と被るから面白くない。でもうしろに「経験」と付けるだけで、なんとなく特別な意味を持っていそうな雰囲気が出て、しかも日本語として語感が良い。ただそれだけである。
もっと堅苦しくなくこの言葉を説明するなら「セルフそれな〜」である。
 
 
自分の場合、この感覚が「言葉という形」で降ってくることが多い。エウレカ経験という言葉も、ある時にこの単語だけがキーワードみたいにふと出てきたものだった。よく分からないけど出てきたこのエウレカ経験という言葉が「なんか、いいな。面白い言葉だな」と思えるものであったので、これってどういう意味の言葉なんだろうと巡らせた結果、こうしてその内容を記している。自分の意思で書いているというよりも、降ってきた言葉によって書かされているかのような、憑依みたいにな謎の力によって書かされているという表現が正しいような気もしている。
いけない。少々スピリチュアルな話になってしまった。    
 
エウレカ経験で導き出される言葉は、頭の中で考えて考えて、うなるような頭の回転の末にひねり出した言葉ではない。理屈ではない。だからなんというか、エウレカ経験によって見つけた言葉の数々には、なんとなくオリジナルなものという感覚がない。だから「わたしの論理は絶対正しいから!聞け!」みたいなエゴが発生しない。
 
また、この手の発見は、一般的でない方向を向いているときの方がやってくるような気がしている。
大げさな言い方かもしれないけれど、「真理を突いた表現」だとか、「言い得て妙な表現」といったものを、一見何も関係ないと思えるものの間に見出すとき、そこにふと言葉を見つけるのである。常識とはかけ離れた「考え方の辺境」とでもいうような場所に思考を置くときに、なんだか嬉しそうな顔を浮かべながら手を振ってエウレカさんがやってきてくれることが多い。
 
なんとも不思議なことなのだが、このエウレカ経験というものは、なんというかとても説明しづらいけれど、答えの方が先に「パンッ!」とやってくるような、清々しい感覚がある。
たとえば難しい数学の式を解くとき、その先にあるたった唯一の答えを出すためには、大量の計算を経なければならない。そこにはいわば、正当な手続きを踏まえた「正しい論理」みたいなものがあって、そうした手続きを間違えることなくしっかり処理して初めて答えが出るものである。
 
しかしこのエウレカ経験は、そんな細々とした煩わしい「計算」を綺麗にすっ飛ばす。論理を鮮やかにすっ飛ばして、答えの方が先にやってくる。まるで論理なんてそんなもの、後付けのこじつけでしかないかのように。
このようなことを踏まえるに、このエウレカ経験って、論理や論理的なものではないと感じる。敢えて一般的な言葉を借りて名付けるとしたら、内向的な直感とかひらめきのようなものなんだろうなあと思っている。
 
 
「いや、この話は何かおかしい。論理的でないものや、根拠が明確でないようなものは、人を納得させることがあるはずないじゃないか!」という意見があるかもしれない。その意見はきっと正しいのだと思う。なぜならそれは論理的に正しいからである。しかしわたしは胸を張って、「果たして本当にそうだろうか」と問いたい。ぜんぜん論理的でもないし、ぜんぜん根拠なんて分からないのに、頭の中にスッと入ってくることがあるじゃないか、と。それはあなたも毎日のように経験していることだよ、と。
 
たとえば、美味しい食べ物を食べたときや、いいなと思える音楽に触れたときなんかがまさにそうだ。これ美味しいなあと感じるとき、「この食べ物が美味しいのは、これこれこういう食材が入っていることによって甘みがあるからわたしは美味しいと感じているのだ」なんて、そんなことを真っ先に考える人はまずいないはずである。そんなことよりもずっと先に、舌で味を感じ、歯で食べ物に触れるという「直接的な感覚」つまり「直感」が働くはずである。あるいは食べる前ですら、食べ物の見た目や匂いなんていう「直感」が働いているように思う。
 
音楽だってそうだ。ある美しい曲を聴いたときに、真っ先に「この曲はこれこれこういうコード進行だから心地よく聴こえるのだ」とか、「高価な楽器だから綺麗に聴こえるのだ」とかって考えたりしないはずである。「ああ、なんか綺麗だなあ。」とただそれだけを感じることは、頭の中に根拠が発生するよりも前に発生する。だからまず直感があって、その後にそれを意味付けするための論理や根拠が生まれる、という順番になる。この順番は絶対にひっくりかえらない。
 
論理や根拠が必ず後からやってくるということ。後出しジャンケンであるということはつまり、論理なんて、如何様にもなりうるということである。後出しジャンケンでは、後に手を出した方が勝てるのと同じように、論理や根拠というものは、答えありきでそれに照準を合わせて変化するのだから、どうとでもなるのだ。なので論理や根拠が間違うことなどほとんどない。
だから、論理はいつも必ず「正しい」。
こうやって考えていくと、「すべての根拠はこじつけであり、すべての論理もまたこじつけである」と言えるのではないだろうか。
 
さて、このエウレカ経験で見つけた「何か」というのは、いつも誰かに伝えたくなる性質を持っているような気がする。「ねえねえ、聞いて聞いて!」とどうしても誰かに「共有」したくなる。
しかも喜ばしいことに、それを共有する動機は、「こんなすごいこと見つけた自分って凄いでしょ!」といったエゴを纏った厚かましさを持ち合わせていない。むしろ、このことを見つけた私のことなんてどうだっていいから「内容そのものをとにかく知ってほしい」というその純粋さに導かれる(ような気がしている)。それは先にも説明したように、その「何か」というものは、なんだか自分オリジナルの発見ではないような気がするからだ。「この発見は、別に自分じゃなくても辿り着く人いるな」なんて考えてしまう。一言で言ってしまえば、まるでそれがとてつもない大発見であるかのように思えてしまうのだ。
 
ここでこうして述べている内容も同じくエウレカ経験によって導かれている。その動機は、発見を誇りに思う気持ちではなく、「なんかふと、こんなこと思いついたんですけど、これって面白くないすか?」というとってもシンプルな共有したい欲によるものだ。
 
パアッと思いついたエウレカを、文章という形で自分以外の人にも分かるように書き残すということ、それは自己の内部に宿ったシンプルで非言語的な一つの答えを言語へと翻訳するような作業であると考えている。それには言葉という媒体を使っている限り、元々のシンプルさをそのままを伝えるということが原理的に出来ない。なぜなら、他人に説明するとなると、どうしても文字や言葉が必要になるためである。今後テレパシーみたいなのが使えるようになったらその限りではないが。
文字や言葉というものは、感情や直感といったものよりも「後」に生まれたいわば「発明」である以上、それ自体が文法や法則性といった論理性をどうしようもなく伴っているので、こうして書き記すこと自体においても、どうしようもなく頭でっかちな論理性が伴うのである。