しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】適当こそ適当

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適当こそ適当だ。
 
日本語の「適当」という言葉ほど興味深い言葉はない。例えばテストの問題文などでありがちな「この中から最も適当なものを選びなさい」というときの「適当」にあてはまる意味は、「ふさわしいこと」という意味を持っている。しかし、「まあこんなもの、とりあえず適当でいいだろう」なんていうように、主に口語で使われるときは、「いい加減であること」というような意味を持っている。ふさわしいことと、いい加減であること。「適当」にはもはや、真逆ともいえる意味が同時に存在しているようだ。これはだれもが一度は考えたことがあるかもしれない。このように、「適当」という言葉がそんな正反対の意味を持っているというのはなんとも不思議だなあと、わたしは昔から思っていた。これは文脈によっては結構致命的な混乱をきたすおそれがあるのではないか。そう考えるにつけ、適当という言葉の意味は、ほんとうに適当だなと感じてしまう。適当こそ適当だ。

 

 
日本語にはこのように、正反対の意味を同時にもつ言葉というのがいくつか存在している。具体的には「適当」の他にも、許可などを求められて、YESかNOかという返答で返すような疑問を問いかけられたときの、「いいです」という言葉。その「いいです」は「はい、良いですよ」という肯定の「いいです」なのか、それとも「いいえ、結構です」という否定の「いいです」なのか。これは文脈や口調を観察しなければ分からない。なので、「いいです」という返事の受け取り方によって、しばしば相互の間に誤解が生まれてしまう言葉であったりする。これも「適当」と同じように、字ヅラだと全く違いがないのでなかなか厄介である。日本語に慣れていない外国の人々が、日本語にはこんなややこしい言葉があるということを知ったら、一体どんな顔をするだろうか。
 
さて、話を大きく変えて、脳科学の話題にしよう。
例えば人間には、多くのことを記憶したり、覚えたことを記憶として長時間保持しておくために用いる能力と、何か新しいことを生み出すような創造性を発揮する能力というものがある。その頭の使い方の正反対ともいえるような感覚から考えて、これら2つの能力は、それぞれ脳の中の全く違う部分を用いているというように思うかもしれない。
しかし近年の脳科学の研究によると、記憶や記憶力を司る能力と、創造性を発揮する能力というのは、実は脳の同じ部分や機能を用いているということが判明したらしい。もっと的確に言えば、創造性の能力は、記憶を司る能力の一部分に属しているものなのだそうだ。
これを端的にいうならば、物事を記憶する能力がある人ほど、創造力も発揮できる能力があり、逆に言えば創造力を発揮できる人は、物事を記憶する能力がある、というわけだ。
 
 
創造力の発揮によって生み出される、誰も考えたことのなかった新しいアイデアというものは、よくよくそれを分析してみると、実はもう既に世の中にあるものをちょっと作り変えたものであることがほぼ100%だといってよい。たとえばAppleの作る製品はどれもとてつもなく革新的に見えるが、それは本当はそう「見える」だけで、技術的な観点から見ると、既にありふれているものであったりする。彼らがウマイのはその広告の打ち方、つまり魅せ方にあるとわたしは思う。ちょっと話が逸れたが、そうした新しいアイディアは既存のものと何が違うのかというと、「新しいアイディアは新しい組み合わせ」であるという違いがある。つまり、今まで誰も試したことがなかった組み合わせを見つけ出すことが、創造的なアイディアのすべてであるといえるようだ。
世の中には数え切れないほど様々な概念がある。そうした様々なものを知って、記憶の中にインプットする。また異なる場面で全く新たなものを知り、インプットする。それを繰り返すことで記憶の量が増えていく。そしてあるとき、あまり意識的に考えていたわけでもないのに、全く関係がないと思っていたもの同士が結びついて、ふと頭の中に新しいアイディアが生まれてくる。「あれっ?これっておもしろいな。」これが創造性が発揮される瞬間というわけである。
 
 
しかし、脳の中でそうした新たな組み合わせが生み出される瞬間というのは、非常に短い時間であり、すぐに忘却へと消え去っていってしまうらしい。その瞬間とはおよそ0.1秒とも言われている。その、文字通り「瞬間」を捕まえ損ねることなく、意識の中にうまくキャッチできてはじめて創造性が発揮されるのである。さきほど、創造力は記憶能力に包括されているという研究の結果について述べたが、必ずしもその両方の能力が同時に優れて発揮されるということにはならないようだ。
例えば、サヴァン症候群と呼ばれるような圧倒的な記憶力をもっている人や、教科書を丸々暗記出来てしまうような人こそが、最も創造力も発揮する人だといえるのかと思うかもしれないが、現実の傾向からみるに、そうとも言えないようだ。そうした人は、たしかに記憶力という点では一般的な人よりもずば抜けていて、テストなどのあらかじめ決められた問題に対して答える能力は長けているようだが、そうした人々が一様に、著名な発明家や芸術家として活躍しているというわけではなさそうだ。よって、記憶を創造へとつなぐ、新たな組み合わせをキャッチする能力にも特別長けているというわけではないことが多いようだ。
 
このように、創造性というものは新たな組み合わせを作り出すことであり、それは「瞬間」に宿るものである。しかもそれはしばしば、意図して「組み合わせよう」とした結果として訪れるものではない。体験して知り得た様々な物事をインプットし、それが偶然にも頭のなかでつなぎ合わさって結びついた結果のアウトプットとして起こるものである。だから、それがいつ訪れるものなのか予測が出来ない。それでもなお、その「瞬間」を捉えることができる能力が高いほど、創造性に長けるといえるようだ。それはまるで、コーヒーフィルターを通してにじみ出て、ポタリと垂れてきた1滴のコーヒーを、すでにサーバーの中へと落ちていった大量のコーヒーに溶け込む前に、見逃すことなく素手でキャッチするようなものである。
そのような、予期せぬ偶然による幸運を見つけ出す能力のことを、セレンディピティと呼ぶ。
 
 
創造性の発揮の最たるものといえば、ノーベル賞を受賞するような大発見というものがある。ノーベル賞ものの発見というと、長年探求し続けてきたある一つの研究の成果がついに実を結び、新しい発見をするに至ったというものだという先入観があるかもしれない。しかしノーベル賞だけで言えば、実際には、そういった愚直な研究の果てに賞を手にする人の方が少ないらしい。賞を手にする人で多いのは、本当は全く違うことを研究していたのにもかかわらず、その過程で偶然見つけてしまったものが、実は大きな発見なのではないかということを思いつき、気になってそっちを究めていったらそれで受賞してしまった、というパターンであるらしい。ノーベル賞はこのように、偶然の発見から生まれることが多い。予期せぬ偶然による幸運を見つけ出す能力。まさにセレンディピティを発揮したことによる発見が、画期的な発見であることが多いという証拠である。ペニシリンの発見から、電子レンジの発明まで、現代の生活で欠かせないものとなっているこうしたものも、発明の経緯を辿るとセレンディピティによる偶然の発見であるとされている。ということは、この世の中は、思いのほか偶然によって成り立っていることの方が多いのかもしれない。
 
 
ノーベル賞とか研究とか、そういった大層なものに限らず、日常の生活でもセレンディピティを発揮することによって新たな発見や能力を見つけるということはしばしば起こることである。片手間になんとなくやっていたものが、気がついたら結構すごいものになっていたとか、思いがけぬ出会いによってその後の人生が大きく変わっていったとかいったような経験は、誰しも一度くらいはあるのではないだろうか。そういったものに共通しているのは、それ自体を目標としていないということである。かえって明確な意志や意図を持っていないだけに、力んでいないので継続するのが苦でなかったり、失敗さえ楽しめたりする。うまくやってやろう大げさに力んでしまうと、大抵失敗するし、失敗したときのショックも大きい。だが、セレンディピティによって引き起こされるものは予期していないものなので、とっさに身構えるしかなく、そこに余計な緊張が生まれることはない。だから幾分いい加減、つまり適当なものにならざるをえないのだ。でもそれでいいのだ。いやそれがいいのだと思う。
 
 
「これをやるぞ!」と意気込んで、最初から目標をしっかりと立てて、それに向かってひたすら進んでいくというやり方は、一般的に言えば立派で素晴らしいとされる。けれども実際にその通りにできる人などなかなかいない。夏休みの宿題を計画通りに進める子など限りなくゼロに近い。でも、それでいいのだと思う。目標を達成するとかいったような、一見それが主たる目的であるかのようなものは、実は足掛かりになるものに過ぎず、その過程で発見したり、出会ったりするものにこそ重要なことが潜んでいたりするのだとわたしは思う。目標をもつことは大いに結構なことだが、きっとその目標はいい加減でいいし、到達できなくてもいいのだろう。それよりも、目標へと至る過程で偶然にも起こる出来事を見逃さないことのほうがよっぽど重要なのだと思う。セレンディピティがもたらす創造性は0.1秒で過ぎ去っていってしまうが、それをキャッチした先にこそ、自分にとってふさわしいと思える何かが待っているのかもしれない。
 
 
教育学や心理学を専攻するスタンフォード大学のクランボルツ教授は、「人々のもつキャリアの8割は偶然がきっかけだ」という偶発性理論を唱えた。その上で、自分で意図的にその偶然を生み出せるようになれば、計画的に自分がなりたい方向へと持っていけるだろうと述べた。これはまさに、セレンディピティを意図的に引き起こそうというものである。それを「計画された偶発性理論」と呼んでいる。これこそが、偶然=適当なことを、ふさわしいもの=適当なものへとしていこうという内容である。とはいっても、この理論は偶然性を扱っている内容なので、具体的な数値や数式によって導き出された理論ではない。クランボルツ教授には失礼かもしれないが、この理論自体が適当だともいえる(いや、適当の意味の捉え方によっては失礼ではないのかもしれないが)。
 
適当(いい加減)にやっていくことで、適当(ふさわしい)にたどり着ける。そもそも、「いい加減」というのは「良い加減」ということでもあるので、実は「ふさわしい」ということとあまり違いはないとも言える。このように考えていくと、やっぱり「適当こそ適当」なのではないかとわたしは思う。もうちょっと有り体に言い換えるならば、「肩に力を入れず、自然体でいることがいちばん大切だ」とも言えるだろうか。自分にとってあまり無理にならないよう、「良い加減」でありつづけることによって、偶然にもその人なりの「ふさわしい」場所を見つけるのだと思う。
とりあえず「適当」に生きてみて、タクシー待ちでもするかのようにセレンディピティを待とう。やってきたらそれをキャッチする。そうやって、わたしたちは適当に生きていくのがいいのかもしれない。
 
 
 
釣り人は、魚が針にかかる時をじっと待つが、かかった獲物がどんな魚なのかは、釣り上げてみるまでは分からないものなのだから。