しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】イタリアで見つけたこと:自分本位であれ

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卒業旅行で一週間イタリアに旅行へ行った。海外旅行に行った回数は数知れど、未だヨーロッパに足を踏み入れたことの無かったわたしは、漠然と「やっぱり行くならヨーロッパでしょ」なんて安易な考えで、ほとんど流れで旅行代理店に行ってツアーを申し込んだ。普通だったら往復の旅券をとるだけで元がとれてしまいそうな費用だけで、添乗員さん付きのツアーに参加できた。
 

 

「海外を見てきたら、価値観が変わるよ」なんて言葉を耳にすることは多い。留学やホームステイを経験して「かぶれて」帰ってくる人も多かったりして、それを見るたびに「なんだその変化は」と驚いてしまう。自分も「かぶれて」帰ってきてやろうかなどと思ったりもした。しかしわたしの場合、今回の異文化経験はたった1週間ぽっち。しかもツアーという、もう最高にミニマムな体験でしかなかったので、留学で1年間などといった海外経験をしている人からすれば、比較にならないほどショボい体験だったと思っている。それでもなお、イタリアを旅して日本との違いを肌で感じることができたのは大きかった。異なる文化をもつ地に足を踏み入れて初めて分かることは沢山あり、そうした経験をすればするほど、自分の世界や考え方がいかに偏狭で狭隘なものかというのをまざまざと見せつけられる。そんなことを改めて感じた。
同質なものの中に長く居続けると、まるでそれが世界の全てであるかのように錯覚してしまう。おのずと考え方は偏り、淀んでいく。その淀み方はあたかも、ずっと閉めっぱなしにしている部屋の空気のようなものだ。そして異なる文化に触れるというのはおそらく、自分の世界内思考という閉め切った部屋の窓を思いっきり開放するようなものだ。そこには、新たな風を感じる清々しい爽快感があるが、ときに変な虫や砂埃も入ってきたりして、何とも言えないくすぐったさのある不安を抱かずにはいられない。
 
さて、そんな今回の旅行で強く感じた印象は、「なによりも楽しそうに生きている人が多い」というものだった。
そうした楽しそうな人々の姿をたくさん見てきて、帰りの飛行機の中で眼下に広がる雲を眺めながらぼーっとしていたら、頭にスッと一つのキーワードが湧いてきた。それが「自己本位」という単語だった。自分勝手ではなく、自己本位だ。
 
イタリアの人は、とにかく適当だ。
ツアーのバスの運転手さんは時間通りに来ないし、添乗員さんがマイクで喋っている横でラジオを聴いて笑っている。リストランテのウェイターさんは、テーブルにお皿を雑に置き終わったら、お店の外に出て電話しに行ってそのまま戻ってこない。美術館の中にいる監視員は、行儀正しく静かに椅子なんて座ってないで、隣の部屋にいる別の監視員たちとずっとおしゃべりをして笑っている。どこの街に行ってもモノの押し売りやスリをしている人は必ずいるし、メトロの車両はラクガキだらけでそのまんま。スーパーに陳列されている商品は袋が破れていることがままある。そういった様々な適当さを見ていると、観光のはじめの方は「それはちょっとどうなんだろう」と訝しむ感情が出てくることがあったが、旅行の最後の方は、「まあ人間そんなもんだよなあ」と、むしろその適当さが心地よいものになっていた。良くも悪くも、ちゃんとしていなかった。
こうしたいろいろな人々のいろいろな適当さにたくさん触れて、最終的に思ったのはシンプルに、それでもみんな暮らしているんだなあということだった。
 
もうひとつイタリアで感じたのは、とにかく「電話で話している人が多い」ということだった。街で歩いている人も、カフェでコーヒーを飲んでいる人も、リストランテやホテルのスタッフも、ひとりで暇だとなればすぐに誰かに電話をし始める。メールではなく電話だ。しかも、一方的に話している人多い気がした。電話も会話なので、端末を耳に当てたまま黙って相槌を打ち続ける時間があるはずなのに、なぜだかとにかくずっと話し続けている人が多い。どれだけ自分のことをしゃべりたいのだろうか。自分が言いたいことを「今、ぜんぶ」伝えようとしているのだなと感じた。イタリア語が分からないので、会話の内容は雰囲気しか伝わらなかったが、電話をかけている人の表情や話しぶりを見るに、みんなとても楽しそうなので、おそらく友だちなどの親しい人にかけているのだと思う。淡々としゃべるというよりも、感情豊かなしゃべりで通話していた。電話口ながらも、感情全開放といった感じだった。
 
というわけで感じた印象。イタリア人は「適当で、おしゃべり好き」だ。
 
もちろん、真面目に仕事に取り組んでいる人もいたが、あくまで仕事は二の次な印象を受けた。では一番は何かと言うと「楽しむこと」だった。まあとりあえず最低限やってはいる、けれどそれは二次的なもので、誰かのために必死こいてやっているという感じではないという印象だ。仕事はあくまで仕事。それはそれとして、仕事仲間やお客さんと一緒に楽しい時間を過ごす。第一に自分を楽しませ、その結果として相手も楽しませる。あくまで「自己」が本位なのだ。
 
しかし、きっと多くのひとがこう言うだろう。「でも、そんな自分勝手なことを誰もがしていたら、社会は成り立たなくなってしまうじゃないか!イタリアの失業率を知っているか?それに比べて日本はちゃんとしている。そもそも日本はなんでもしっかりしていて、規律が正しいのがいいところだろう?」そのとおりである。正しい。日本では、電車は秒単位の正確さをもって必ずやってくるし、礼儀正しく、列も守る。そういえばイタリアでメトロに乗るときに列を作ったことなど一度もなかった。降りる人が先とか、最初に電車を待っていた人が先に乗るとか、そんな概念が無かった。
きっと長い間そういう環境で暮らしてみたら嫌気もさすようになるのだろう。旅行レベルの体験だから許せるということも重々承知のうえ、どちらかを選べと言われたら後者を選ぶかもしれない。でもトイレの綺麗さは本当にありがたい。
 
 
日本で暮らしていると見えてこないその秩序の正しさは、素直に凄いと思う。暗黙の規律があること自体、国際的にみて、かなり個性的で異質な特徴だというのはよく言われることだ。この特徴はこれまでも、そしてこれからも、日本社会においてずっと変わらないことなのだと思う。これには日本が島国で、ほぼ純粋に単一民族国家であるということも大きく影響していると思っている。そうした「正しさ」とは、そうした「純粋さ」からも生まれると思っている。
純粋さといえば、民族的な側面だけではない。社会の純粋さにおいてもあてはまる。「社会が高度になり、秩序の純度が高まるにつれて、常識の側から要請される、排除すべき非常識の量は増加していく」というような内容を精神病と病院について前に語ったときに書いた。社会や環境がきっちりすればするほど、逸脱が目立つようになり、きっちりしていない者に対する「修正せよ」という圧力が増していく。そして逸脱してしまった側も、純度の高い均一な社会を外側から見て、その輪の中に入れないことに対してひどく不安を覚える。「なんとかして自分もしっかり適応しよう、いやしなければならない」と思うようになり、常識からの要請に潔く応えることになる。この繰り返される篩の網を経て、社会の純度はより一層高められていく。そしてさらに細かい違いが、逸脱として槍玉に挙げられるようになり…といった風に。
 
集団や社会の一体性や秩序性はこのようにして高められていく。ただしこの状態が行き過ぎると、とてつもなく息の詰まった世の中になってしまうと思っている。逸脱を許さなくなるということは、逸脱した後のその人の生き方を狭める。これは当然起こりうることだとして、さらにその人の生き方の選択肢を盲目的にさせるという結果にもつながる。わたしは、この「盲目的になる」という部分が最も怖れるべきところだと思っている。つまり、息詰まるほど正しくて均質な世の中における最大の弊害は「選択肢を狭めて、それ以外の道を見えなくさせる」ことだ。もっと簡単に言えば、多様さを認めなくなるということだとも言える。さらに言えば多様さがあることに恐怖感さえ覚えてしまう。たとえば「レールから外れたら人生終了だ」などと考える人が多いのは、もちろんその人の了見が狭いことにも原因はあるが、社会や自分の周囲がレール外を認めず、それを見えなくさせているという点にも同程度の原因性があるとわたしは思っている。
 
均質な世の中では、均質でない者に対する救済の目が向けられることがない。それどころか「あなたが同化しなかった(できなかった)のだから、それはあなたの自己責任だ」という論理が正しいものになる。ここでいう正しいとは大多数であるということである。正しさはそのうち完全に聞く耳を持たなくなり、結果として完全に見放すという結果も招く。感情論かもしれないが、これは人間としても社会としても、とても冷たい印象を受ける。こうなると、その中に生きる人々は「絶対に逸脱してはならない。とにかくしがみつけ」と保守的になり、秩序の遵守それ自体を目的とした生活を営むといった現象が起きる。そして持つ者が持たざる者を蔑むことを生きる糧として生活を送るという意地の悪い人が増えることになる。正論警察が増えることになる。適応できない人に後ろ指を指しながら、子どもたちに不安を煽ってこのように言うかもしれない。「将来ああなりたくないなら、目上の人の言うことを聞いて言う通りにしなさい」と。
人間どうしたって失うことが不安だから、ひたすら守勢に回ることになり、失うまいと躍起になるのだ。そうして結果的に「自分さえ逸脱していなければそれでいい。他の人のことなんてかまっていられない。自分自身で精一杯」と多くの人が思うようになっていく。自分のことで精一杯になるために、他者や異質な人々との交流が限りなく少ない世の中になり、結果として更に生きづらい世の中となっていってしまう。世間一般にいう「勝ち組」と冠されたパイの取り合いに必死になり、ようやく手に入れた秩序の維持に多くの意識リソースを割くようになる。そのような人が増えていくことで、全体として余裕の無い世界になっていくのだ。この余裕のなさの現れが、あの異常なまでの受験戦争や過労死、自殺率といったところに歪みとしてにじみ出ているのだと思う。つまり、「失敗しても他に選択肢がある」と思えなくなることが余裕の無さを生み出していると思う。
 
こうしたことを考えていくと秩序性の高い世界においては、逆説的だと思われるかもしれないが、他者との助け合いや弱者に手を差し伸べる姿勢が薄くなるのではないかとわたしは思っている。なぜなら、そこに生きる人々は秩序へしがみつくことに必死となってしまうために、他者を省みる余裕がないからだ。実際に助けがあるか無いかというよりも、助けがあると思えなくなることそれ自体が、最も人の心を締め付けるのだ。
こんなことを考えているたびに、ヘレニズム時代を生きたエピクロスという人のこんな言葉にたどり着いてしまう。
 
 
われわれを助けてくれるものは、友人の援助そのものというよりは、
友人の援助があるという確信である。

 

 
 実際に助けてくれる人がいるかどうかではなく、助けてくれる人が周りにいるだろうなという確信。その安心感があればこそ、もっと自由で大胆に動ける人が沢山出てきて、面白きこともなき世が面白くなっていくのではないかとわたしは思う。
 
ある程度意図的に余裕を残しておくという世の中の方が好きだと思った。それはイタリア的でもなく、日本的でもない。その中間くらいの世の中だと思う。もちろん「人を殺す自由」みたいな他人の自由を束縛するような逸脱は許されない。そういった最低限の秩序は維持され続けなければならないが、社会にとっての正しいロールモデルのレールからはみ出さないようにし続けるような、秩序の維持の為の日々を送るような生活を強いられるようになると、その人が発揮できるはずだった個性や自己というものが溶け出していってしまうと思っている。個性のない交換可能な存在というのは、それこそ社会の歯車と呼ばれるような、交換可能なパーツのようなものだということで、それは誰にとっても悲しさや虚しさしか生まない。別に誰でもいいのだったら、なぜ自分はここにいるのだろうかと、存在の意味を見いだせなくなってしまう。存在の意味を見出せなくなった人は、明日を楽しみに迎えることができなくなってしまう。一度虚しさを覚えたら最後、その人は、いじけて生きていくばかりになってしまうと思う。人間は自己表現をしているときと、その自己表現を共有するときが一番キラキラするとわたしは思っている。だから自己表現を抑圧された社会で、人々の目が死んでいくのは当然なことだと思っている。「自己本位である余裕」を持てるくらいの世の中が丁度いいのだと思う。
 
 
知性は豊かでも性格が臆病なひとびとは、非宗教的とか非道徳的とみなされるような結論に達するのを恐れて、ものごとを大胆に、積極的に、自由に考え抜こうとはしない。そういうひとびとが多数となった世界はどれだけのものを失うか、その損害の大きさは計り知れない。
(中略)
社会全体に思想の自由がない精神的な奴隷状態のなかでも、偉大な思想家は個人として出現したし、これからも出現するだろう。しかし、そういうところでは、知的に活発な国民というものはけっして生まれず、これからも生まれまい。
 

 

 
喜びや悲しみといった色々な感情を顔に出して自己表現をして、細かいことには「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と「深刻な仮面」をかぶったあらゆるものを笑い飛ばせる余裕が欲しい。そもそも世の中に深刻なことなんて、ほとんど無いに等しいのではないかとわたしは思い始めている。この変化は、個人それぞれの心の面持ちによって変えていけることだと思っている。そして、より多くの人々が「自分を解放する」ような世界になっていってほしいとわたしは願っている。なぜなら、そうした余裕にこそ遊びは生まれ、遊びにこそ真の仕事が宿るものだから。
日本もヨーロッパみたいになったらいい、などは全く思わない。とにかく物騒だし、移民、宗教、民族を原因とした色々な対立が起こり続けている。行く先々で銃を携えた兵士が常駐しているのを見たときは、この人たちが必要なくなるような場所になればいいなと思った。どうしてもテロや命の危険というワードが頭にチラついた。
ただ、イタリアの人々は、少なくともわたしの目には生きているように映った。もっと的確に言えば、 ひとりの「わたし」として、意識してか知らずか、なんとかして日々を楽しく過ごそうとしているように見えた。
わたしはそこに、「自分本位であれ」というメッセージを受け取ったのだった。