しーずん見聞録

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【エッセイ】看守なきパノプティコン ~伊藤計劃『ハーモニー』より

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 現代は、インターネットによって不特定多数の人々の暮らしや価値観を知ることが簡単な時代に突入している。物理的な距離という制約によって縛られていた情報の伝播の限界が、インターネットの登場によって一気に取っ払われたためだ。それによって、誰もが自分の情報を「誰かに」提示することが可能となり、自分のあずかり知らぬところで、誰かに知られることになる。

 

 情報を自分で制御することはもはや不可能となり、知らないうちに公開された自分の情報を誰かが「評価する」ことで利益、不利益を被るようになる。そして勝手に評価されていることなど知る由もない。
 
 では、そうした高度な「監視的」情報化社会が進んでいった先に何が起こるのか。作家の伊藤計劃氏が遺した『ハーモニー』というSF作品では、そうした社会を予見めいたものとして描いている。
 この作品に登場するセリフや設定から、現代社会の情報化と結び付けて考察する。
  
わたしたちは互いに互いのこと、自分自身の詳細な情報を知らせることで、下手なことができなくなるようにしてるんだ。この社会はね、自分自身を自分以外の全員に人質として差し出すことで、安定と平和と慎み深さを保っているんだよ。
伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫

 

 ハーモニーの世界では、人々の身体の内部に「WatchMe」というシステムが導入されている。これによって、体内の健康状態が恒常的な監視状態に置かれている。怪我や病原体などが体内に確認されると、即座に排除する仕組みである、という説明は前にも述べたことである。WatchMeは、病気と呼ばれるものの一切合切を駆逐し、人の死は、そのほぼ全てが老衰か事故によるもののみになっている。また、健康コンサルタントと呼ばれる職業が存在しており、WatchMeから送信された健康状態をもとに、個人それぞれの健康に沿うような食生活や献立表を提示している。この世界の人々は、基本的には健康でしかありえないのだ。もしも人前で病気や怪我をしている姿を晒そうものなら、また、もし人前にやせ細った姿やまるまると太った姿を晒そうものなら、SA(Social Assessment、社会評価点。その人の社会的な地位を星の数でランク分けする仕組みのこと)を著しく落としてしまうということに繋がる。
 また、この社会では、オンラインを通じて定期的に行われる共同体の会議セッションに出席する必要があり、共同体の構成員の意見の一致を図っている。もし、このセッションで共同体に異を唱え、反旗を翻そうものなら、やはりSAの低下は免れない。SAが低ければ、立派な職業に就くことは不可能であり、非常に肩身の狭い生活を強いられる。そのためSAを落とすことは極端な話、社会的な死を意味する。
 
 このように、ハーモニーの医療福祉社会では、身体の状況や食生活をはじめ、セッション参加や共同体への合意に至るまで、すべてはSAを落とさないために良い状態を維持し続けなければならない。社会に対して、私が好ましい存在であるという証拠を「提示し続け」なければならないのである。
 
 肌荒れはセルフコントロールの喪失。
 目の下のくまは社会的リソース意識の欠如。
 それらは如実にSAに反映される。
『ハーモニー』より
 現代の社会では、まだWatchMeのような、人間の身体環境を常時監視するようなシステムは存在していないため、個人の健康状態が社会の評価に直結しているとはいえない。しかし、能動的な活動とはいえ、個人の行動や思想を不特定多数の前に晒せる環境はすでに整っている。例えばブログやフェイスブックツイッターなどをはじめとしたソーシャルメディアがまさにそうだ。インターネット上では、それ自体がもつ性質上、強力な正のフィードバックが働く。一度放たれ、拡散された情報の普及スピードはとてつもなく、誰にも止めることができないというわけである。拡散された情報が真実であれデマであれ、既存のあらゆるメディアと比べて圧倒的なスピードで不特定多数へと伝播していく。
 
 そうした情報の意図的な拡散は、拡散こそ「正義」であり「良いこと」だと信じる人々によって加速されていく。たとえば、若い女性社員が長時間労働やハラスメントを理由に自殺したり、即席のカップ焼きそばの中に昆虫が混入したりすれば、それは「社会悪」として即座に拡散していく。不正をする者や制裁が必要な者は即座に吊るし上げられる。拡散することそれ自体が一つの制裁であり、正義への加担であるとみなされる。あまつさえ、そうした失敗や不正を隠そうとしようものなら、その流れは企業の意図とは逆に更に加速する。
 
ちなみにこのような、報道を抑制しようとすると逆に目立ってしまう現象のことを指して「ストライサンド効果」と呼ぶ。
 
 
 現代の日本社会には戦前の特別高等警察のような思想警察は存在しない。にも関わらず、たびたび「晒し上げ」や「不正の暴露」がなされる。それ自体が良いことか悪いことかは別として、インターネット上では、何か強力な思想警察的ともいえる力が働いているのではないか、そうした大きな枠組みや仕組みといったものが暗黙のうちに存在しているのではないか。そしてそのような自然発生的な仕組みが、社会や国家といった枠組みを超えて機能しているのではないだろうか。「インターネットには誰もがアクセスでき、だれもが自分の意見を載せることができる自由な発言の場である。」というのは広く言われてきたことではあるが、自由ゆえに無秩序かと言われればそうではなく、むしろその逆で高度な秩序めいたものがあるのではないかとわたしは考えている。
 
 
 我々の現代社会とハーモニーの世界でのネット上での形態を比較して、最も大きく異なるのは、匿名性という部分であろう。ハーモニーの社会においては、名前、職業、健康状態や社会的評価点を全て、コンタクトレンズ式の拡張現実装置を通して見ることができる。しかもただ街ですれ違うだけで知ることが可能であった。しかし現代のソーシャルメディアでは、実名による利用は必須ではない。ニックネームなど、親しい人なら判別ができる程度の名前を設定して利用していることも往々にしてある。SNSを実名で利用しているか、匿名で利用しているか、その内訳は総務省が発表した以下のグラフが参考になる。
 

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総務省「社会課題解決のための新たなICTサービス・技術への人々の意識に関する調査研究」平成27年 より
 

 

 最も高いフェイスブックで約85%、LINEが約63%と続き、その他は3割程度かそれ以下と非常に低い。このことからも、現代社会ではSNSは匿名利用がまだまだ主流であるということが読み取れるであろう。この匿名性こそが、現代社会の、特に日本のネットにおいて特徴的なことであり、「匿名だから」とか「特定されないだろう」といった認識が、利用者に大きな影響を与える。それが信頼性という点である。
 
 以下のグラフは、2016年に新聞通信調査会が発表した「第9回 メディアに関する全国世論調査結果」からの引用である。これは、本調査結果レポート内にある「各メディアの信頼感の変化」というグラフである。グラフの黒塗りの部分が、信頼感が「高くなった」と回答した割合の数値である。このグラフによると、「新聞」や「NHKテレビ」を上回って信頼が上昇しているのは「インターネット」であることが分かる。一般的な感覚からしたらあり得ないと感じる人もいるかもしれないが、実は他のどんなメディアよりも信頼感が上昇しているのは「インターネット」なのである。
 

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財団法人 新聞通信調査会 2019年メディアに関する世論調査結果 より
 
 インターネットは信頼感が上昇している。それも匿名なのに、である。無論、ある程度信頼のおけるwebサイトは数多く存在している。しかし人々が情報として求めているのは客観的事実だけではない。むしろ世論、風潮、常識、好き嫌いといった強く個人的な感情が混入する「感想」のほうがより多く情報として受け取っている。ネットではそうした「感想の情報」が他媒体に比較して圧倒的に入手できる。つまり、ネットでは他者の感想に大量に触れることができるのである。
 
単なる感想の集積が信頼感を上昇させているとはどういうことか。
「誰が発したことかも分からないことなのに、それが信頼に値する」という一見矛盾したような奇妙な現象。この現象に対してどのような説明をすればよいのか。
 
 ドイツの社会学者であるニクラス・ルーマンは、彼の有名な社会システム論のなかで「匿名の第三者の認知」という言葉を登場させる。ルーマンによると、社会が規範を構築するためには「自分の知らない(多くの)誰かさんが、何かに対して同意を示していること。また自分がそのことを知ること」が重要であるという。たとえば掲示板やツイッターなどで、実生活では一度も会ったことがない人が意見を述べているのを閲覧する。これを見ると、「やっぱり"みんなが"そう思っているのか」といったように解釈しがちである、というのが「匿名の第三者の認知」である。匿名性は、第三者の主観的で偏見にまみれた意見であっても、それが多くの人々のコンセンサスであると錯覚しやすいのである。
 
「自分のよく知る人」ではなく「自分の全然知らない人」が言っているという保証が、逆に信頼性を強くするのである。
 
 人は往々にして、自分の信じたいものを信じがちである。情報化社会において、「現実とは選択するもの」である。ネット上には、全く立場を異にする意見が沢山存在しており、それはテレビやラジオのように、受動的に視たり聴いたりするのではなく、ある程度能動的に同じ意見を探し出し、選別している。だから、自分の考え方に最も同意できる意見だけを探し求めることができる。そして見つけたらウンウンと頷く。そして、さもその意見は誰もが思っていることかのように考えてしまう。それがインターネットのもつ、一つのマジックである。インターネットの信頼感が上昇し続けていることには、こうした「匿名の第三者の認知」による、巧妙なバイアス感の消滅が一役買っていると考察できる。
 
 
 
 「ウィキリークス」という言葉をどこかで耳にしたことがあるかもしれない。これは、企業や政府などといった組織の機密情報を匿名で公開するというウェブサイトの名称である。ウィキリークスに投稿される内容は、主に企業や政府が密かに行っている不正などであり、投稿される内容によっては、暴露対象となった組織の社会的評価を著しく下げることもある。例えば2010年に、先のイラク戦争に関する米軍の機密文書の約40万点がウィキリークスに公開されたことは有名な話である。この文書内には、民間人の無差別攻撃などといった内容を含んでいたこともあり、アメリカの世論は、米軍や政府に対して厳しい視線を向けた。米政府側もウィキリークスへの投稿を、「国家機密漏洩の罪は法律違反である」として非難した。
 このウィキリークスの創設者であるジュリアン・アサンジと、彼と思想を同じくする友人たちとの対話を収録した著書『サイファーパンク』では、不正を正すという思想をもって、政府や軍からプライバシーを守るべく啓蒙活動をする者たちの警告が事細かに描かれている。その中で、コンピュータ・セキュリティ研究家のジェイコブ・アッペルバウムはこう述べる。
 
 
人々はシュタージ―旧東ドイツの国家秘密警察―にいることで報酬をもらい、そしてフェイスブックに参加することで報酬をもらう。フェイスブックにいることで、直接金をもらう代わりに、社会的信用を得る―(中略)これはテクノロジーの話ではなく、監視を通じたコントロールの話だからだ。ある意味、完璧な円形刑務所なんだ。

 

 アッペルバウムに言わせると、現在主流となっている諸SNSツール全般はすべて政府などの監視下に強く置かれているという。仮にもしその中で反社会的な投稿をしてしまえば、ブラックリストに入ることになり、当の本人は何も悪いことをしていないつもりでも、入国審査やクレジットカードなど、その他諸々の審査が厳しくなるのだという。アッペルバウムは、そうした監視下に置かれた自己表現ツールのことを指して、円形刑務所と揶揄する。
 円形刑務所とは、英語でパノプティコンとも呼び、刑務所の形態の一種である。これを考案したのは功利主義者であり、哲学者であるジェレミーベンサムである。円形状に刑務所を建造し、その円周に沿って監獄を並べる。そして囚人を監視する看守を円の中心に設置することで、効率的に監視ができるという形式の刑務所である。ベンサムはこのように、囚人を「恒常的な監視下」に置くことで、囚人に労働の習慣を身に着けさせ、生産性の上昇が見込めると考えていた。この監獄では、看守は当然ながら囚人のすべてを監視できるのに対し、囚人同士は留置所それぞれが独立して壁で覆われているために、お互いを認知することができない。こうしたことからも、パノプティコンの様相は、まさに匿名性と監視の問題をはらむ今日のソーシャルメディアの形態と酷似しているといえるのではないだろうか。
 
 アッペルバウムは今日のソーシャルメディアの状況を、パノプティコンであると述べた。しかしここで思い出してほしいのは、政府や企業といった権威性による統制が無くとも、利用者による暴露は起きているということである。というよりもむしろ、ウィキリークスが目的とすることのように、政府や企業の信用性がないからこそ積極的な暴露が起きているとさえ言える。
 
 インターネットという枠組みさえあれば、不正は匿名で糾弾され、それを支持する不特定多数によって数の暴力とでもいうべき非難が注がれる。もはやパノプティコンに看守はいらない。ワールドワイドウェブでは、不特定多数によって思想警察的な役目が担われているのではないだろうか。
 
 SNSに対して好意的な印象を抱いている人からしたら強い嫌悪感を感じるような例え話になるかもしれないが、プラットフォーム(=ツイッターフェイスブックなどSNS)を監獄そのもの、それらを利用するユーザーを受刑者としてこのネットの構図を例えてみよう。すると、この円形刑務所の中央に位置するべき看守(=政府や組織などといった公的な権力を持ち、一定の拘束力をもつ存在)はもはや必要がない。誰でも、誰かの投稿にアクセス可能である以上、不正や嫌疑はすぐさま目ざとく発見される。それは、ネットというものが本質的にもつ性質であるところの正のフィードバックに乗って、文字通り秒速で拡散していく。
 
 監獄内では「お互いがお互いの近況を報告し合う」というのが表向きのお題目である。しかしこの節での議論を当てはめて言い換えるならば「お互いに悪いことをしていないか見張り合う」と表現ができる。ここで強調しておきたいことは、「利用者自身は、監視し合っているとは思っていない」ということである。なぜならソーシャルメディアにおける表向きのお題目は自己表現であり、自己承認欲求の充足であり、それ以上の意味合いは無いからである。「こんな楽しいことをした」「こんな所に出かけた」と投稿し、それに対して「いいね、楽しそう」と返答する。それがSNSのオモテである。だが、「バイト中に業務用冷蔵庫に入ってみた」だったり「○○駅に爆弾を仕掛けた」といった投稿に変われば、ニコニコしていたはずの不特定多数は、一気に対象を攻撃する。そして実際にお店が閉店したり、投稿者が逮捕されたりする。これがここで指摘しておきたいSNSのウラの構図である。このSNSのウラについて、かつてソ連では密告によってその対象となった人がシベリア送りとなったのだが、このような状況とかなり近いものを感じる。このように考えると、現代のSNSとそこに潜む「ウラ」は、ある種かなり理想的といえるほどの社会主義的な環境を図らずも構築していると言えるだろう。
 
 しかしこの議論では、もう一つ認識しておかなければならない重要な側面がある。それは、利用者はどこまで行っても、この監獄=プラットフォーム(=ツイッターフェイスブックなどのSNS)の中でしか存在し得ないという点である。たとえばツイッターツイッター社が管理する巨大な枠組みである。これは作られた囲いである。そこは一見自由に発言し、投稿できる場であるように見えて、暴かれる不正や嫌疑がでっち上げられることは可能性として有り得る話である。一見自然な流れで始まったようにみえる暴露や炎上が、監獄側の仕掛けた情報操作である可能性が存在する。そして利用者は全容を把握できない以上、誰もその顛末のすべてを把握することはできない。
 
 この例に関して、マイケル・ファーティック著の『勝手に選別される世界』において象徴的な例が紹介されている。それがオランダの石油エネルギー企業であるロイヤル・ダッチ・シェル社の偽広告事件である。以下で、同書に掲載されているその事件の概要を説明しよう。
 
 
2012年6月7日、シェル社のものとされる、北極圏における原油採掘事業の広告がソーシャルメディアを主としたネット上に打ち出された。その内容は衝撃的なもので、広告の中には海面に浮かぶ油膜から逃れようとするホッキョクグマの写真を背景に「生き延びるのに、現状打破はつきものさ」というコピーのついたものなどが掲載された。当然ながらそれらに対する反響はすさまじく、主にフェイスブックを始めとしたネット上でいわゆる「炎上」が広まっていき、シェル社の広報には大量の苦情が押し寄せられた。実は、この広告や事業そのものが完全なるでっち上げで、シェル社は一切関与していなかった。この広告をばらまいた黒幕は、環境保護団体である「グリーンピース」であった。
 その後、多くのブロガーのもとに、シェル社からと名乗るメールが寄せられた。それは「偽広告を拡散することで、シェル社の評判低下に加担したとみなし、弁護士を通して法的な手続きをとる」という脅迫めいた内容であった。これをうけて多くのブロガーは、ソーシャルメディアを介してメールの内容を拡散。シェル社と徹底抗戦する構えをとった。
 この事件は二段構えとなっている。実は、この脅迫メールもシェル社は一切関係がなかった。グリーンピースと関連のある下部組織がなりすまして送ったメールだったのである。しかしながら、この巧妙すぎる偽広告事件の顛末に、ちょっと炎上事件を聞きかじっただけの多くのソーシャルメディアユーザーは騙された。結果としてシェル社の評判はガタ落ちし、現在でも画像検索によって偽広告が表示され、永遠の炎上に苛まれているという。
 
マイケル・ファーティック、デビット・トンプソン著
(『勝手に選別される世界』pp.258-262より抜粋、要約)
 
まさにソーシャルメディアの中ででっち上げられた情報が、炎上それ自体を目的として拡散された例である。ロイヤル・ダッチ・シェルからしてみれば、この事件は将来に渡って長期的に禍根を残す炎上であり、どうにも防ぎようがなかっただろう。
 
 
 以上のような悪質な情報拡散による風評被害は、政府や国、地方自治体といった実態を伴った現実のコミュニティではなくネット上で起きたことだ。
 
その主な特徴をまとめるならば、以下の3点を挙げることができるだろう。
 
  • インターネットはその特性上、他のメディアと比較して、正のフィードバックが爆発的な力を持ちうること
  • ネット空間という一見自由な発言が保障されているように見える場であるという無意識的な認識によって、それらの意見が政治的に非常にフラットで偏見のない「正義」のように思えてしまうこと(インターネットの信頼感が他のメディアと比較しても上昇していることからもわかる)
  • 「匿名の第三者の認知」の効果が発揮されやすい。まるで社会の全員が「それは良いことだ」あるいは「それは悪いことだ」と一律に思っているように感じられる。そのため対面の関係でなくとも強固な連帯感や秩序の形成が起きやすいこと
 
 もはやアッペルバウムが述べるような、「監視を通じたコントロール」は必要がない。なぜならインターネット上では、利用者同士がお互いをコントロールしうるからである。監視する役割を担う一方的で明確なコントローラーは存在していない。にもかかわらず、「大多数」や「大勢」といった名前のつけられた大多数が確かに存在し、常に目を光らせ、お互いを監視し合っている。それも目を光らせていないかのように。それはまさに、看守なきパノプティコンともいえる環境なのである。
 
 最も単純だが基本的なことを言うならば、「ネットでは誰に見られているか分からない」ということに自覚的でいたほうがいいということだろう。