しーずん見聞録

しーずんといいます。作った楽譜や書いたエッセイをここで公開しています。

【エッセイ】I played soldier, you played king

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どんな生物にもあてはまることだが、人間というのもまた有限であり、必ず最後にたどり着くのは「死」である。生まれる前という固定された「無」からはじまって、その後に生が始まる。つかの間の「生の時間」を経て、やがてまた「死」という固定された「無」へと戻っていく。
 
 
自然や宇宙という悠久な長さをもつものからしたら、人間の生なんて実にちっぽけなもので、その人が生きている時間というのは、「生まれる前の時間と死んだあとの自然全体の時間」の合計と比較したら、圧倒的に短く、もはや無いと言ってもいい。もし宇宙の総時間を帯グラフにしたら、「生の時間」 なんて点にも満たないだろう。太陽とベテルギウスを比べたら、太陽なんてドットでしかないかのように。
つまり「生の時間」は、自然からしたら一瞬だけ起こる「異常な出来事」ともいえる時間帯なのである。完全にエラーが起きている時間帯である。では、この「生の時間」とは一体なんなのか。何のためにこの異常な時間帯が生まれるのであろうか。何のために私たちは生物として、人間として生まれるのであろうか。
「人間はなぜ人間なのか」そんな典型的な中二病みたいなことを考えるのは好きだ。今更かっこ悪いとか、無駄だとか言われても、やっぱりそういう壮大なことを考えているのがわたしは好きだ。
人間存在自体が矛盾を抱えているということ。矛盾つまり、そもそも論理が成り立っていないモノが、原理的に真実にたどり着くことが出来ないということを認識しつつ、どうあがいても真の答えに絶対にたどり着かないということをもちろん分かったうえで、それでも考えてみたくなる。
 
わたしの考えた結論を一言で言うならば、「幻想」である。
 
先程も述べたとおり、生とは、「無」と「無」の時間の間にある、束の間の異常事態発生中のことだといえる。だから通常はありえない出来事が起きている状態といえる。そのありえない出来事というのが「生の時間」である。ここまではまだ良かった。問題はその「生の時間」において、人間は不自然なことをしまくっていて、それを一言で言うなら「考える」ということである。おとなしく、自然な状態であり続ければいいものを、可能な限り反抗してやろうと、不自然を志向している。いつも無理をしているのが人間という存在なのだ。
人間の場合、「生の時間」というのは頭脳による思考を駆使して、あらゆる論理を獲得していく過程のことを示し、世界に意味を与えていく時間を意味する。科学や理論は、世界のあらゆることを解明しようと邁進している。人間は常に世界を明晰に捉えようと、細分化し続けている。身の回りに起こる物理現象を帰納的に推論し、あるいは方程式として、あるいは処世術としてカテゴライズしていく。意味を志向する人間の文明が長く続けば続くほど、世界に意味が重なり続けていくのだろう。
 
しかしながら、人間がそうしたことを行う理由が全くもって意味不明なのである。そもそも意味なんてない、ただそう在るだけのはずの自然に、あらゆる意味を付与していこうとすることは自然の原理からいって、全く持って反する「不自然」なことなのである。人間もまた自然の産物でありながら、このような自然に反する「不自然」さを持っているという、はっきりいって訳の分からない存在だ。ではどうして人間には「そもそも意味なんてない」はずの「自然」に、わざわざ意味を付与していこうとする「不自然」な習性があるのか。
 
それが全く分からないのだ。自分自身が、存在してはならないはずの矛盾している存在である以上、論理が通用しない。論理のないところには意味が生まれないために、この疑問はおそらく、どんなに科学が発展したところで、ずっと未解決であり続ける疑問ではないかと考えている。その意味で、根本的な存在原因にまつわる「人間に残された最後まで残る疑問」となるだろう。人間はこれからも自然界のあらゆる謎を解明し突き止めていくが、最後まで謎であり続ける問題が、最も身近な「人間」なのではないだろうかと考えている。宇宙という「有」が、「無」という存在(非存在?)から生まれたという話は有名であるが、この類似性からして、おそらく人間の誕生を問うことは、宇宙の誕生を問うことと同じようなことだと思っている。あらゆる生命は生き残りをかけて後世に命のバトンタッチをしているというが、そうやって繋いでいくのには何か理由があるのだろうか。繋いでいったその先に何か目的があるのだろうか。
 
誰も世界の終わりを見届けることは出来ない。だからこの問題の答えは誰にも正しく回答はできないのだと、わたしは思う。
 
 
意味の付与は、人間の頭脳に基づく習性というところまでは分かるのだが、ではなぜ頭脳を獲得してしまった、あるいはさせられてしまったのかが分からない。ここで「それは進化をしたからだ」という答えを滔々と語る人がいるが、その答えだって、人間の一方的なこじつけであり、勝手な意味の付与である。だいたいダーウィンのせいである。しかしここがこの問いにおいて、ひとつ言い換えが効くヒントの部分となっていて、「人間はなぜ人間なのか」という問いは、「人間にはなぜ頭脳があるのか」を問うことと似ているような気がしている。
 
ここでアダムとイブという言葉がどうしても思い浮かぶ。旧約聖書によれば、神の怒りを買って楽園を追放された彼らだが、善悪の智慧の実を食べることによって善悪の判断する能力、つまり「考えること」を獲得してしまった。旧約聖書的には「考えること」を獲得することは、罪であり、頭脳を獲得してしまったら、楽園であるエデンから出ていかなければならなかったようだ。だが、旧約聖書にも「なぜ智慧の実」を食べることがいけないことだったのかは、詳しく書かれていない。というかピンと来る答えを提示してはくれていない。「それが神との約束だったから」という答えは、そもそも説明になっていない。善悪の分別を獲得すると、自分勝手に物事を考えるようになるのだが、なぜ自分勝手になることがいけないことなのかが分からない。しかし、ここに何かヒントがあると思っている。あらゆる物事には、人間が頭脳で考えて出したようなものではない、つまり「自分勝手では決まらない、絶対的な何か」の存在をほのめかしているような気がするのだ。それに敢えて名前をつけるとしたら、やっぱり「本質」とか「真理」のようなものだと思っている。
 
つまり、智慧の実を食べて「考えるようになる」ことは、そうした絶対的な「真理」から遠ざかってしまうということを意味しているのではないかと思っている。自然であること、「そもそも意味なんてない」はずであること。それらに意味を見出そうとする人間とは、絶対的な「真理」を退け、逆の方向へと向いた、言わば反逆者なのだと思う。おそらく神が怒ったのは、智慧の実を食べることで結果的にアダムとイブが「真理を捨てた」という罪を示したかったのではないかと勝手に解釈している。よって、神を絶対的な真理と同一視して考えるとするならば、神が怒って楽園を追放したというよりもむしろ、アダムとイブが自ら勝手に楽園から抜け出していったと表現するほうが正しいのではないかという気がしている。まあそもそも、旧約聖書キリスト教なんてただのフィクションだ、と切り捨ててしまえばそれまでの話なのだが。だからこれも、ちょっと小説を読んで考察したという類のレベルのものでしかないと自分でも思っている。
 
ここまで色々と言って水を差すようだが、人間は「考えること」では真理にたどり着けない。ということを考えると、人間の頭から発生するものはすべて「虚構」だともいえる。すべてはまやかしであって、本質的に誤りなのではないか。「生の時間」という間にだけ発生する「虚構」なのではないか。だから例えるならばそれは「夢」のようなものなのではないかと考える。
 
 
夢はその多くの場合、レム睡眠という、眠っていながらも頭脳が活発に働いているときに見るものである。それと似たようなもので「生の時間」もまた「頭脳が活発に働いているとき」であるといえる。夢も生も、どちらも束の間のひとときであることと、頭脳が働いていることという共通点がある。こうしたことからも、「生の時間」というのは夢と似たようなものなのではないかと思っている。夢は、眠りから醒めることで消えていく。生は、自然へと還ることで消えていく。終わらぬ夢はなく、滅びぬ命もない。だから人間の生というのは、いつか目覚めて終わってしまう夢のようなものなのだと思う。
わたしはこうやって考えた末、「幻想」という答えにたどり着いたのだった。どうやら、「胡蝶の夢」という言葉を残した荘子と同じ答えにたどり着いてしまったようである。
 
 
 
胡蝶の夢といえば、世界がすべて虚構のお芝居のように感じることがある。
というのもわたしは数年前に精神的に大きく体調を崩してから、自分の体と心が分離したような、言葉でうまく表現できない現実感の無さを感じるようになった。疲れた金曜日の夜、暗い部屋で金曜ロードショーを観ている時に起こっていたようなあの感覚。ブラウン管のテレビ越しに世界を見る感覚。
心を崩してから自分と世界の間に距離が生まれた。それは今も程度の差はあれ続いているが、どうしてもこの現実を夢のような感覚でしか捉えられなくなるような気持ちになることがある。自分の周りにいるこの人たちは一体誰なんだろうとか、何をしている人なのだろうとか、自分以外の他人がすべて、お芝居をしているように感じることがある。今となってはこの感覚に慣れてきたこともあるのか、あまり強烈に感じることはなくなってきた。
しかしそんな感覚に陥るたびに思うのは、「劇団世界」という言葉だった。「何をみんなそんなに必死になっているのだろうか」と自分だけ世界から蚊帳の外に立って、まるで全能の観察者のような視点になって周りの人や社会を俯瞰してしまう。そして「なんでこの人はその役割を演じているのだろうか」と疑問が浮かび上がる。そこには嘲笑や虚無感といった卑下の感情は一切ない。ひたすらに純粋な疑問として、他人が何かの役割を演じていることへの疑問があたまの中に大きく膨らんでいく。
世界は劇場として出来上がっていて、一人残らず何かの役割を与えられては、それを遂行して生きているのではないかと。でもなぜみんなそんなにちゃんと自分の役をしっかりと演じているのか、と。
 
そして思うのは、結局のところ、自分が何かの役割を演じるのは、自分がその役割を自ら受け入れているからという"だけ"の理由なのではないかと。爆弾ゲームのように誰かから回ってきた役割をそのまま受容して受け入れること。あるいは男として、女として、父親として、母親として、兵士として、王として……。
 
でも、それは「与えられた」というよりも、実は「受け入れたからそうなった」という方が大きいような気がしている。有名なスタンフォード監獄実験はまさにその典型例だ。看守役を受け入れることで残忍な看守になる。囚人役を受け入れることで権力への服従を受け入れる。無意識のうちに役割をしっかりと演じているからそうなる。たとえ自分が不遇な役割であっても、「しっかりとみじめに」なる。そうやって演じることで自分に意味を付与している。演じてしまっているから「不自然」である。だから「生の時間」はエラーが起きている時間帯のことを指す。
 
 
役割を「与えられ」「受け入れる」ことで、監獄実験でさえ、途中で中止になるくらい本気で役割に傾倒していったくらい、本当にそうであるかのように演じてしまう。
だとしたら実験ではないこの「現実」でなら、人々は遥かに巧妙に何者かを演じているとは言えないだろうか。
 
You told me, "Yes,"
You held me high
And I believed when you told that lie
I played soldier, you played king
And struck me down, when I kissed that ring
 
君はわたしにイエスといい、高く持ち上げた
君の言うその嘘を、わたしは信じた
わたしは兵士を、君は王を演じた
忠誠を誓った途端、君はわたしを打ち倒した
 
Linkin Park  『burn it down』の歌詞より
 
 
 
 
その人の置かれた環境や境遇がその人の役割を決定させる、というのは大きい要素かもしれない。これは根拠も無い感情論でしかないが、別にそれがその人の役割を決定づける最も大きな要素ではないとわたしは思う。
 
その人がどんな人かを決めるのは、その人の環境や境遇というよりも、その人自身がどうありたいか、という意志のような見えない部分の方が強く作用しているような気がしている。「自分は○○だ」という自己規定や自己暗示こそが、最もその人をそうたらしめるのではないか。どこかの論文で、「人は幸せだから笑うのではない。笑うから幸せになるのだ」といった話があったが、それと同じことであるような気がしている。あるいは「嘘も100回言えばまことになる」とか「言ったもん勝ち」という言葉もあるが、案外それは間違っていないような気がしている。
 
 
なんだかバカみたいな話だが、このような力の作用はなんというかまだ現代の科学では解明されていない、ダークマターのような未発見の力学のような気がしている。環境や境遇がその人の役割を決定させるというのが、役割を「与えられ」「受け入れる」ことから始まるのだとしたら、与えられた役割を意識的に「受け入れない」という当人の意志によってそれは回避されるような気がしている。そしてこの両者の力学的な綱引きというのは、得てして後者に軍配が上がる。そんな気がしている。
とはいえ、そんなどうしようもない役割という虚構が現実として成立してしまうのならば、すべての人々に課せられた成り行きもまた「虚構」でしかない。であるならば「その人は、その人自身を演じているだけ」なのだとしか言えない。というわけで、現実はどうしようもなくお芝居であって、劇団世界なのだとしかわたしには思えない。
 
soldierやkingは「play」しているものであって「be」ではないのだから、どこまで行っても仮初の仮面でしかない。言ってしまえば幼稚園の学芸会とさほど変わらない。泡沫のごっこ遊びを続けているだけなのだろう。きっと変に忠誠なんて誓うから、裏切られたなんてことを思ってしまう。
 
Burn it down の歌詞は以下のように続く
 
You lost that right to hold that crown
I built you up but you let me down
So when you fall, I'll take my turn
And fan the flames as your blazes burn
 
君は王冠を被る資格を失った
わたしが君を支えても君は期待を裏切った
君が失敗したら今度はわたしの番だ
君の燃やす炎をわたしが煽ってやる
 
自分を自分で演じているということ。それを一歩下がってどこか冷静に見ることは難しい。まともに役割を担おうとすればするほど、役割の間に要らない緊張が生まれて対立しては報復が連鎖していく。そうやって世界は血を流しあう劇団として演じられていくのではないだろうか。
けれどもこの劇団においては、うまいセリフを言ってやろうとか、準備してきたセリフを一字一句間違えずに喋ろうなどといったことは厳禁で、それでは何も面白みがない。むしろ即興のアドリブがうまい人ほど、演じていて楽しく、観ていて面白い。
「幻想」「胡蝶の夢」「虚構」「おしばい」と、様々な表現をしてみたが、すべて意味するところは同じで、ひとときの夢のことである。
となると、その夢の中で我々にできることとしたら、せいぜい「やりたいように楽しむ」くらいしかできないし、それで十分なのではないかというような気がしている。
「すべてまやかしなら、何をしていても無駄だ」と悲嘆に暮れて無気力に生きたり、無理して我慢して、苦しみを良しとして生きたりするのは、どうも間違って
いる気がしている。少なくとも、ちっとも面白くない。 
だとしたら、どうせ見るなら楽しい夢を見ていたいし、どうせ演るなら楽しい芝居を演じていたいものだ。